幸福



 ゼルが熱を出してダウンしたと聞いて、おれが一番に思ったのは、絶対にあいつがいる部屋には近寄らないでおこうということだった。別に、風邪をうつされたくないとか、そんな理由じゃない。あいつを見舞う連中に会いたくないだけだ。
 きっと奴らはそろいもそろって、明るい声でゼルを笑い、からかい、そして励ましていくのだろう。ああ、いやだ。絶対にそんな場に居合わせたくない。うすら寒いぜ、まったく。
 そもそも誰がいようが、いまいが、おれはあいつを見舞う気なんてなかった。たかが風邪でおおげさな、という気持ちもあるし、それ以上に、もし自分がその立場だったら、と考えると、まず誰にも来てほしくない。これは遠慮しているわけじゃない。むしろ、四六時中おれの世話を焼いて、身の回りのことをしてくれるやつがいるのなら、ぜひ頼みたいくらいだ。
 だが、そうじゃなく、ただ元気出せよと励まされ、中途半端に労って、帰っていくだけだったら、まったくもって、来てほしくない。疲れるし余計に気をつかう。
 そんな思いで、おれは普段通りに授業を受けたり、風紀委員の活動をして一日を過ごした。そして時折ゼルのことを思い出した。別段なにも感じなかったが、あいつは今ごろなにしてるんだか、と、考えることはあった。



 結局のところ、ここまで語ってきたことは、しょせんおれの言い訳にすらならない虚言であり、おれの意志の弱さ、揺らぎやすさばかりをしっかりと表してしまっている。
 おれは、大嘘つきだ。弁解はしねえ。もういい。開き直ったからには好きにする。
 つまり、おれはいま、ゼルの部屋の前に立っている。そういうことだ。えらそうに、ゼルの見舞いにいかない理由をとうとうと語っておいて、結局、我慢がきかずにここにいるのだった。しかもちゃっかりと、委員活動の時に使っているチェックボードを片手に持ち、消灯の見回りを装っている。我ながら、周到で姑息な演技に情けなくなる。時々すれ違う同級生をぎろりと睨むことも忘れずに、ともかくおれはゼルの部屋にたどり着いたのだった。
 そして着いたところで帰りたくなった。
 怖じ気づいたのだ。よくよく考えれば、おれが奴に歓迎されるはずなどなかった。病床の時なんて、友人が来ても少しうっとうしいくらいだろうに、よりにもよって普段目の敵にしている奴がのこのこと見舞いに来たら、嫌味に感じることはあっても、喜ぶことはないだろう。そんな気がした。
 おれはしばらくそこに立ち尽くした。帰るのも、ノックをするのも、どちらもためらわれた。しかし不意に、廊下の向こうから、コツコツと早足の足音が聞こえて、おれは、まずい、誰かに見られる、とそんな焦りが湧き、気づけば雑にノックをしたあと勝手に中に入っていた。
 部屋の中は薄暗かった。明かりをいちばん小さく落としているのだろう。おれはおそるおそる、部屋の奥に進んだ。ベッドがふくらんでいるのが見て分かった。眠っているのだろうか。おれは小さな声で言ってみた。
「おい。……だいじょうぶかよ、」
 ベッドのふくらみが少し動く。大きく息を吐くのが聞こえた。
「誰だ……え、サイファー…?」
 ゼルの声は掠れていて聞き取りづらい。おれはベッドのそばに近寄った。ゼルは寝返りを打ち、仰向けになる。見下ろすおれと、目があった。熱っぽい、いつもとちがう目をしている。おれが来て驚いたのか、その潤んだ目が戸惑うように揺れていた。
「あんた、なんで……。まさか、あんたも、見舞いに?」
「ついでだ、ついで。」
 おれはわざとらしく面倒くさそうな声をだして、風紀委員のボードを見せた。ゼルは、ちらりとそれを見て、すぐにまたおれの顔をじっと見つめた。
「まあ、そりゃそうか。へっ…。でも、ついででもいいや。ありがとな、サイファー」
「……おまえほんとに大丈夫か?そんなしおらしい奴じゃねえだろ」
 おれが思わず口をはさむと、ゼルは目を細めて小さく笑った。
「もうおれ、いま、心細くってさ、とにかく誰かこないかなあって、思ってたんだ。ほんとは寝ちまいたかったけど、昼にもたくさん寝たから、なかなか寝付けないし。でも体はつらいし、もう、やなことばっか、頭に浮かんで、昼間に見舞いに来てくれた連中の顔とか、勝手に思い出して、無性にさみしくなってさ。なんか、そんな感じ……」
 訥々と語るゼルの顔は、どこかぼんやりとしていた。まだ熱が高いのだろう。おれは、だからといってどうしてやることも出来ず、ベッドの端に浅く腰かけて、水差しの水はまだあるな、とか、そんなことを考えていた。
 ゼルが息を深く吸い、ひっそりと目を閉じた。おれは、はっとして、ふとわが身を省みた。もしかしておれは、いま、ものすごく迷惑な存在ではないだろうか。病人が眠ろうとする夜に無遠慮に押しかけるなんざ、まったくどうかしている。
「もう、寝るか。つうか、寝た方がいいよな、そりゃそうだ。おれは戻るぜ、急に来て、邪魔したな」
 そんな言葉が素直にでてきたことに驚きながら、おれはベッドから離れようとした。だが、あわてたようなゼルの声に引き留められる。
「待ってくれ、待って、おれは、眠くない。まだ寝ないよ。頼む、もうちょっとここにいてくれ。おれは寝ないから……」
「なんだ、どうした……?」
「だめなんだ、おれ、いま一人になりたくない。すごく時間が長くて、もういつまでたっても、夜は明けない気がしてるんだ。暗いし、寒いし、もうおれ、このまま、消えちゃうんじゃないかって、一人きりで、こんな思いで……」
「……ゼル」
 普段からチキンだなんだと罵っている相手だが、こうも無防備に弱気になられると、おれの方が、どうしていいものか困ってしまう。
「……一人になりたくないんだな?」
「ああ、」
「おれが、ここにいりゃあいいのか」
「うん、できることなら」
「じゃあ、いてやる。そのかわりおまえはもう、寝ろ」
「おれが寝ても……」
「勝手に帰らねえよ、少なくとも、おまえが次に目覚めるときには、おれはちゃんといるから、」
「なら、いい。サイファー、あんがと……」
 最後の言葉は、消え入りそうに小さかったが、それでも、これまでの言葉の中で、いちばんはっきりと聞こえた。おれの胸に刻まれた。
 それからおれは、そっと、ゼルの額に触れてみた。熱いのは熱いが、平熱の肌の熱さがどんなものかもよく知らないので、なんの判断も出来なかった。ただ、触れたとき、ゼルが力を抜くように目を閉じて、穏やかに息を吐いたのを見て、ああ、眠るんだな、と、思った。感極まるような、不思議な気持ちだった。そっと髪をなで、耳に触れ、そうして、好きなようにさわっていると、ゼルは今度こそ、深い眠りに落ちていった。
 おれは椅子をベッドの側に置き、それに座って、ベッドのあいたスペースに突っ伏した。ゼルの寝息が聞こえてくる。ああ、おれは、今すぐにでも眠れる。もったいない気もしたが、まあいいだろう。いま、とても満たされた思いだった。はっきりと誰かに必要とされて、自分のすべてでそれにこたえる。それが、こんなにも、うれしい。
 おれはベッドサイドの照明に手を伸ばし、完全に明かりを落とした。真っ暗な部屋の中で、おれは、窮屈に体を折り曲げ、目を閉じ、静かに呼吸しながら、少しずつ体を脱力させていった。
 幸福だった。



おしまい

2010年10月8日 保田のら






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