身に余るほど


 幽世の門では成果のない失敗は許されない。おれが肝心の標的を殺すことができず、逆にこちらの痕跡になるものを残して帰ってきたとき、大人達は心底冷たい顔をしていた。
 どうして生きて帰ってきた。
 まず言われたのがその言葉だった。お前たちにはあの薬を持たせてあったろう。なぜ使わなかった。大人達の言葉は、おれの耳をするすると通り過ぎていく。
「もういいだろう」
 誰かがそういった。説教が終わったかな、と、思った。しかしそいつはおれの前に来て、とつぜん、おれのあごをつかんだ。
「……、」
 おれはわけがわからず、男を見上げた。ほんのひとかけらも優しさのない顔。男はおれの口を無理やり開かせて、もう片方の手に持っているなにかを、おれの口に入れようとした。
 毒だ。
 おれは悟った。
「お前の死体をおいておけば、どっかのくそガキが強盗まがいのことをしたんだって、馬鹿な警備兵たちは思ってくれるだろうよ」
 ああおれは殺されるのだ。
 人をたくさん殺してきたおれは殺されるのだ……。
 おれは泣き喚くこともしなければ、許しを乞うこともしなかった。この組織に殺され続けたおれの感情は、いまさら働いてはくれない。
 それなのにひざが震えた。
 立つこともままならないほどがくがくと震えるのだった。
 薬を掴んだ男の指が口の中に入ってくる。ああおれは死ぬ。ひたすらに苦しんだあげく死ぬ。

 いやだ、そんなのは。

 おれは目を瞑った。
「よしなさい、」
 誰かが大きな声をあげて、男をおれから引き剥がした。おれは地面に叩きつけられる。
「痕跡はすでに処理しました。この子を殺す理由なんてない。むしろ、子どもの死体が転がっていたら、我らの存在が明らかになったときに不都合が生じます」
「…………」
 男は心底不満そうで、また侮蔑するような目をして、いけすかねえ野郎だ、とつばを吐いた。そしてどこかへ消えていった。同じようにおれを責めていた大人たちも去っていき、その場にはおれと、おれを助けた男だけが残った。
「だいじょうぶですか」
 この男のことは知っている。諜報だかなんだかの役をしている男だ。
 おれは何も答えなかった。ゆっくりと立ち上がる。ひざはもう震えていなかった。
 男は、待ちなさい、と静かに言った。
「せめて涙は拭いてゆきなさい」
 そういって、ハンカチをおれに差し出す。おれは意味がわからず、手をほおに持っていった。ほおは水でぬれていた。
 男に背を向け、ガラスに自分の顔をうつす。おれの目は真っ赤になっていて、涙はもうこれ以上ないくらいにぼろぼろと零れていた。
 なんだこのみっともない姿は。
 だれだ、この、くだらない馬鹿は。
 おれは手を振り上げガラスを割った。ガシャン、とけたたましく音が鳴る。
「……それが当たり前なんですよ」
 男はおれの背中に向かって言った。
「泣くのが、怒るのが、そういった感情が当たり前なのに、ここの子ども達は……」
「うるせえ」
 おれは男を振り返って言った。男は何も言わずにおれを見つめていた。
 おれはやりきれなくなって駆け出す。割れたガラスを踏みしめ、男の横を通り過ぎる。走って、走って、自分の寝床に帰ったとき、そこには無表情の子ども達がおれにまったく興味を示さずにぼんやりとひしめき合っていた。
 おれはまた、感情のスイッチがオフになったのを、感じた。






 オボロのおっさんはいまだにあのときのことを覚えていて、しかも平気でおれに言ってくる。
「この調査はどうしてもシグレ君に行ってもらいたいんですけどねえ。ここはひとつ、命の恩人に恩を返すということで、いかがでしょう。この私に免じて」
「あのなあ、おれはもうあほほど返してるだろ、恩」
「いやあー……そうですか?」
「そ、そうですかって……、……くそ、かなわねえな」
 おっさんが切り札を出したら、おれには勝ち目はないのだった。ありがとうございます、とオボロのおっさんは笑顔で言った。
 そうだ、恩は返しても返しても返しきれないほどに受けた。
 オボロのおっさんにも、フヨウさんにも、サギリにも。
 おれは身に余るほどの恩を受けたのだ。
「あー、面倒くせえなあ…」
 おれはふう、と煙草をふかした。その煙の向こうに、おっさんと、フヨウさんと、サギリがいるだけでも、おれにはもったいないほどの幸福なのだった。

2006年3月1日 保田ゆきの






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