とってもマゾヒスト


 ああもういやだ。いやだいやだ。ザハークは殴るから、蹴るから、いやだ。暴力に訴えるなど、下らぬ。言葉がある人間として失格だ。何のための言語だよ。手を出さなくってもいいように、言葉は、あるんだろうが。ああいやだ。この男ほど原始的で、心がむき出しの者はいない。
 おれがそんな気持ちでいると、また、ザハークがぎろりとその目を向けてきた。いったいこの男、なにがそんなに不満なのだろう。冷静な男だったじゃないか。まるで機械のように、無駄なことなんて一切しなかったじゃないか。それがどうして、こんなふうになってしまったんだろう。おれを傷つけて、この男のどこがどうやって満たされるのか。傷つける行為が快感なのか。傷ついたおれを見るのが快感なのか。どちらにしたってサディスティックなことだ。おろかな。
 おれはふと、口の端をぬぐった。やはり血が出ている。舌でなめると鉄っぽい味がする。傷が空気にふれて、ひりひり痛んだ。なんだか泣きたい。どうしてこのおれが、こんな惨めな思いを?レルカーの街がどうした、そんな街、もう、忘れてしまえばいい。もう愛想がつきました、なんていって、ひょいと逃げてしまえばいいんだ。そこまで考えて、おれは、よけいに泣きたくなった。できるものならとうにそうしている。しないのは、おれが、心底レルカーの街を好いているからだった。何の変哲もない、このちっちゃな街が好きだ。水の音がするこの街がおれは好きだよ。
 ザハークの指がおれの切れた唇にふれた。思いのほかやさしい手つきでぞっとする。あ、丸め込まれるぞ。おれはそう思った。いつだってそうだ。
「痛かったか」
 ザハークが言った。
「痛いさ。決まってるだろう」
 おれが応えた。
 ザハークは、そうか、と言って、唇から手を離し、かわりにおれにやさしい(ふりの)キスをした。おれは、くっだらないなあ、と思いながら、それでも目を閉じた、その拍子に涙が出た。
 この男に触られたら、それだけで息が上がる。ぼんやりして、なんだか、すべてがどうでもよくなってくる。おれはそれが悔しくてたまらない。力の強くないおれにとって、思考力こそ武器だ。それを奪われたおれは丸裸もいいところである。
 この男がこんどは、暴力とは別の側面からおれを支配しようとし始めた。おれは「いやだ、」と声を上げる。生娘のようなこっ恥ずかしい声だった。
 ザハークはぴたりと動きを止め、
「そうか、いやか、」
と、存外すなおに聞き入れた。おれの上からのいて、ふっと後ろを向く。
 ああ、この背中の、なんとさみしいことだろう。
 おれは歯を食いしばって、悔しさにふるえ、屈辱に耐え、それでもなお湧き上がるこの、同情にも似た愛しさを無視できず、その背に手を伸ばした。これが噂の飴と鞭だ。しかもこの男の場合、鞭、鞭、鞭に次ぐ鞭、ようやっと与えられる飴のほんのひとかけら。それでもおれは、その甘さが好きで好きでたまらない。
 振りかえったザハークは、残酷な顔をしていた。おれはそのときに、あ、しまった、と思い知るのだ。この男に蹂躙され、嬲られ、辱められる自分を確信しながら、それでもおれは、その鞭すら飴の一部のように、感じ始めていた。
 ああ、おれってやつは、とんだマゾヒストだ。涙は出ない。

おしまい

2006年3月20日 保田ゆきの






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