もはや迷いはない



 今度はどんな皮肉を言われるだろうと気を重くしながらザハークのいる碇泊船を訪ねると、ザハークは船から降り、無邪気に犬とたわむれていた。オロクは何も言わず、数回まばたきをする。リセットだ。すべてを忘れて、もう一度真っ白な心で現実を見るんだ……最後にぎゅっと目を瞑り、薄目でもういちどザハークを見た。
 あ、やっぱりだめだ。
 見間違いではない。蜃気楼でもない。
 あれは間違いなくザハーク、しゃがみこんで犬とじゃれているザハークだ。
「……おい、」
 この幸せそうなひとときをじゃましてよいものか悩んだが、オロクもひまではない。ザハークの背に向かって、遠慮がちに声をかけた。ザハークは犬の頭をなでながら、静かに振りかえった。
「ああ、君か」
「えっと……。いま、忙しかったか、」
「いいや」
 なぜおれがこんなに気を使わなくてはならないのだ。オロクはそう思いながら、ちらりと犬に目を向ける。結構大きな犬だった。毛は茶色で短く、耳がぴんと立っている。目はまっ黒で、つぶらだった。その目がザハークの顔をまっすぐに見ていた。よほど懐かれているんだろう。オロクはすこし呆れた。
「その犬、飼っているのか」
「ああ」
 なんてシンプルな答えだろう。しかしなぜ、よりによってレルカーで犬を飼うんだ。そんなものは自宅で飼え、ばかばかしい。
「なんで、飼ってるんだ」
 オロクの質問は至極まっとうである。敵地に乗り込んで犬を飼う馬鹿なんて聞いた事がない。
 しかしその質問を聞いたとたん、ザハークはぴたりと止まった。飼い主の異変を察したのか、犬はザハークにとびつき、ふんふんとにおいを嗅いでいる。ザハークは少しくすぐったそうにして、また犬の頭をなでた。
「犬はいい」
 とつぜん、ぽつりとつぶやく。
「忠実だし、かしこい。それにかわいいじゃないか」
 オロクは衝撃を受けた。世界がひっくり返って、もひとつひっくり返って、見た目は元通りだが中身はずたぼろ、そういう気持ちだった。
「……そうだな、」
 そう言うのでせいいっぱいだった。ザハークはまた犬に向き直り、楽しそうに遊んでいる。オロクはどうでもよくなってきて、書簡をザハークのそばに置き、さっさとその場を去った。



 ザハークは見た目の通り、感情の起伏が少ない男だが、それでもなにか苛立って仕方がないときはオロクを碇泊船に呼びつける。逆に、必要以上に穏やかなきもちが湧いてきたとき、または心寂しいときは、オロクの屋敷を訪ねてくる。
 近頃はよくオロクの屋敷に来るようになった。あの犬がザハークを癒しているのだろうか。ああ、りっぱな癒し犬。どちらにしたってオロクには迷惑な話だ。そんなに犬が好きなら犬を抱いて寝ちまえ。心の中でそう毒づく。
 事が終わって風呂に入り、ベッドの中でうとうととしてきたとき、ふと、気になっていたことを尋ねた。
「あの犬、名前はなんて言うんだ」
「レルカー」
 ザハークも眠いのか、静かな低音でそう答えた。
「レルカー?まさか、レルカーで拾った犬だからか?」
「ああ、そうだ」
「……たまげたネーミングセンスだな」
 オロクは息を吐く。レルカー。茶色の可愛いレルカー。レルカー、お手。レルカー、おすわり。レルカー、待て。
 そんなことをぼんやり考えているうちに、オロクのまぶたは自然ととじていった。眠りに落ちる前、そっとザハークの手にふれてみる。レルカーをなでたあのやさしい手つきが忘れられない。
 いつもあんなだったら、お前、もっと生きやすかっただろうなあ。
 ぼんやりとそう思った。







 ザハークの手によってレルカーに火がつけられた日、同時に犬のレルカーも死んだ。
 ザハーク自身が殺したのである。
 オロクが王子と対面したあと、急いで碇泊船に駆けつけたまさにそのとき、レルカーの体にはザハークの剣が深々と突き刺さっていた。
「な、にを、……」
 声が震えた。お前が可愛がっていた犬じゃないか。他の誰でもないおまえ自身が、じゃれあい、やさしい手つきで頭をなでていた茶色の可愛いレルカーじゃないか!オロクはぎゅっとこぶしを握り締めた。
「連れてゆくことはできない」
 ザハークの声は淡々としていた。
「飢えて死ぬか、焼けて死ぬか。ともかくレルカーは生きられない、だから引導を渡したまでだ」
「早計だ。れ、レルカーは、おれが飼ったってよかったのに、」
「わたし以外の誰かが飼うなんて、許せんな」
「この…!」
 それはまるっきりお前のわがままじゃないか、クソ野郎!オロクは叫んだ。ザハークはびくともしなかった。やはり静かな声で、
「おしゃべりしている間に、君の大好きな街がどんどん焼けてゆくよ」
とやさしく言う。オロクは口をあけ、わなわなと震え、しかし罵声も何もいえないまま、碇泊船から飛び出した。
 ザハークは剣を引き抜き、レルカーの体をやさしく抱えると、船のふちから川へ放り投げた。





 街の人々を避難させ、消火活動をして、どうにか落ち着けたとき、オロクはようやく涙が出た。焼けた屋敷のなかで、一人でうずくまって声を上げた。
 可愛がっていた犬の命さえ簡単に手放したザハーク。ではあの日々はなんだったんだ。オロクが散々に傷つき、打ちのめされ、それでもときどきやさしさにふれて、安心しながら眠ったあの日々は、もはや下らないまやかしだ。
 ザハークは犬のレルカーを殺した。自分以外の誰かが飼うのが耐えられずに。ではおれは、おれはなんだ、なんの未練もないあの淡々とした表情、殺されぬことの寂しさ!
 オロクは涙が止まった後も、じっとうずくまっていた。久しぶりに子どものように泣いたので、何だか眠い。だんだん腹も減ってきた。
 気づけば悲しさよりも、生理的な欲求の方が勝っていた。眠りたい!食べたい!生きたい!体が必死になって叫んでいる。
 ああ、生きているとは、たくましいことだな。
 そう思えたとき、オロクは自然と立ち上がっていた。袖をまくって屋敷からでる。
 オロクさん!と生き残った面々が待ち構えていたかのようにオロクを囲んだ。オロクはキッと顔を上げ、街をまっすぐに見つめ、
「さあ、レルカーを立て直すぞ」
と力強く言い放った。もはや迷いはない。生き残った者の強みだった。

おしまい

2006年6月15日 保田ゆきの






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