人を愛するということは



 ファレナという国を根本からひっくり返した、あの大いなる戦いに決着がついたらしいという便りを耳にした。ひと月ほど前には、自分もその渦中にいたのに、今ではひどく遠い。身近に大きな問題を抱えているからかもしれない。
「戦が終わったんだとさ。まあ…つまり…ゴドウィンが死に絶えたんだろうな」
 ああ、でも、お前は怒るか?オロクはそう言って少し笑った。
「なんせ、お前はそっち側の人間だったもんな…」
 日差しはあたたかく、風も穏やかだ。目の前では、川が静かに流れている。
「そろそろ家に入るか、ザハーク」
 もちろん返事はない。だがオロクは気にした様子もなく、ザハークの手をそっと握った。



 あの薬を使ったものは、ほぼ間違いなく狂い死ぬ。だから、ザハークが唯一の例外となった。アレニアが燃え尽きるように息絶えていた横で、ぼんやりと天井を見つめていたらしい。彼の身柄が保護されたと聞き、オロクはすぐに駆けつけた。そして、廃人のように焦点の合わない、変わり果てたその姿を目の当たりにした。
「ザハーク…」
 本拠地の地下室で、ぼんやりと前を見ながら座っているザハーク。オロクはその前にひざまずき、手をとって静かに泣いた。あんなに憎んでいた相手なのに、いざ、こうして傷ついた姿を見ると、もう、いてもたってもいられず、涙ばかりがあふれてくる。
「ああ、もう、おれたちの戦いは終わったんだな」
 裏返った声でそう言った。ザハークは何の反応も示さなかった。

 ザハークの身柄を引き取ると言ったとき、カイルは即座に反対した。
「なに考えてるの、オロクさん。そんなのオロクさんがすることない。それに、今のあの人と一緒にいたって、辛いだけだよ。不毛だよ。なんの意味もない」
「辛らつだな、おまえ」
 オロクは苦笑する。
「おれが、奴と一緒にいたいんだ。ただそれだけなんだ」
 それでもカイルは納得しなかった。ずっと食い下がり、反対しつづけた。だから、カイルが王子に付き従ってゴドウィン追撃に出たとき、ザハークを連れ出して逃げた。ザハークは弱っていたが、先導すると自分で歩いてくれた。最終決戦を前に、いまさらオロクやザハークの動向に注目する者はおらず、二人は難なく本拠地から抜け出せたのだった。
「ふん、今さらだが、なんともおれらしくないことをしてしまったな」
 小さな村の宿屋で休憩しながら、ザハークに話しかける。
「このおれが、かつての天敵で、いまや廃人となってしまった男をつれて、ひっそり隠居生活をしようとしているんだぞ?ふふ…」
 いすに座るザハークのひざに、自分の頭を乗せた。不毛だ、と言ったカイルの声がよみがえる。
「まあ、おれみたいな小物には、ぴったりの結末かもな」
 この村を出て、川沿いにずっとゆけば、小さな小屋がある。レルカーの上流に当たる場所だった。かつてはそこを物置代わりに使っていた。整理さえすれば、二人で暮らすのに問題はないだろう。
 誰にも知られることなく、この男と二人で、静かに暮らす。確かに不毛だ。意味もない。オロクはおかしくなって、小さく笑った。



 ザハークは、こちらから促せば大体のことはできた。食事、排泄、睡眠。生きていくのになんら問題はない。逆に、一切できないのは発語や意思表示だった。意思があるのかも疑わしい。さじを口にあてがえば口を開き、寝床に連れて行けば自然と眠る。スイッチを押せば反応するおもちゃのようで、その過程に思考は感じられない。
 ときどき叫びたくなる。
 自分がしていることの虚しさに、涙が出そうになる。
 でも、ザハークの身体を洗ったり、髪を梳いたり、一緒に外へ出て川の流れを見ているとき、なぜだか胸がしめつけられ、ああ、この男とずっといっしょにいたい、あたたかい身体に触れていたいと、心底思うことがある。
 だからオロクはしあわせだった。
 この暮らしで、体はどんどん消耗していったが、心は満たされていた。



 とてもよい天気だった。オロクはいつものように、ザハークの手を引いて外に出る。川のほとりに二人で腰掛けた。
「今日も気持ちのいい天気だな…」
 川では小魚の卵がかえり、あたらしい命が生まれている。草木は花をつけ、そのにおいが風にのって運ばれてくる。
「なあ、ザハーク…。おれは最近思うんだがな。おまえと一緒にいられるなら、おれは、死んでもいいと思うんだ。あのとき、お前だけが死んで、一人取り残されるのだけはいやだった。でも、今なら、こんなに満たされている今なら…」
 ザハークの肩に頭をのせて、オロクは続けた。
「なあ、どうだ?一緒に死ぬか…」
 不意にザハークの肩が揺れた。オロクは顔をあげる。ザハークの手が、そっとオロクの手首をつかんだ。身体を引き寄せられる。唇が静かに重なった。そのまま耳元に唇を寄せて、
「それは、困る」
とはっきり言い放った。
「君は、まだ、死ぬべきではない」

 いったい何が起こったのかわからずに、オロクは混乱した。ザハークの目が、オロクをまっすぐに見つめている、その口から、言葉が発せられた。
 なんということだ……、オロクの膝がふるえる。
「ザハーク…おれが…わかるのか…?」
 すがるようにザハークを見る。
「なあ、おれがわかるか!?わかるなら、さっきみたいに、口付けてくれ。その手でおれに触れてくれよ。声だ…声をきかせてくれ。何度でも、何度でも」
「オロク」
 ザハークは囁いて、オロクを抱きすくめた。オロクの目からあふれてくる涙を唇で掬い、たしかめるように息を深く吸った。そしてゆっくりと吐き、もういちど口付けた。
 オロクはザハークを抱きしめた。涙をこぼしながら、ありったけの力で抱きしめていた。

「もう、やめなよ、オロクさん…」
 とつぜん背後から声がした。懐かしい声だった。振り返らなくても、それがカイルだとすぐにわかる。
 オロクはザハークを抱きしめながら言った。
「カイル、聞いてくれ。ザハークが…ずっと、ずっとなんの反応もしてくれなかったこの男が、いま、やっとおれを…おれだと…わかってくれたんだ、おれに口付けて、おれの名を呼び、おれに触れてくれたんだ!」
 泣きっぱなしだったオロクの声は掠れていた。まぶたも熱くてはれぼったい感じがする。でもこの幸福には代えがたかった。
「おいザハーク、カイルが来たぞ。あいさつしてやれよ、さっきのように」
「オロクさん、」
 カイルはひざまずき、泣き出した。ザハークはまた、人形のようにじっとしている。オロクは泣いているカイルを見て、再びザハークを見た。その手をとって頬にあて、静かに言う。
「なあ、もういちど話してくれよ、もういちど、おれに触れて…」
 急に視界が暗くなった。平衡感覚を失い、体を支えられなくなる。重力に任せ、意識も手放した。カイルが慌ててオロクの体を受け止める。
「オロクさん、しっかりして!」
 気を失ったオロクの顔をよく見ると、明らかに以前よりもやつれ、顔色も悪い。カイルはオロクの頬に手を当てた。かさついた肌をなでながら、全く動じていない(むしろ、なにも見えていないような)ザハークをにらみつける。
「こんなとき、オロクさんを受け止めることさえできないくせに…!」
 その声には、苛立ちと、妬みが含まれていた。ザハークは微動だにせず、どこかをじっと見つめていた。





 家の中では、オロクが眠っている。いままで張り詰めていたものがプツンと切れて、いっぺんに疲れが出たのだろう。それほどまでに、深い、深い眠りだった。
 カイルはそっと剣を抜く。不穏に光る切っ先を、ザハークの心臓の位置に合わせる。
「ザハーク殿…あなたの存在は、もう、オロクさんを苦しめるだけなんだ…」
 柄を持つ手に力が入る。
「このままじゃ、オロクさんのほうが先に死んでしまう。それだけはぜったいに許せない」
「やってくれ、カイル殿」
 とつぜん、ザハークが口を開いた。カイルは息を呑む。
「本当は、もっと前に死ぬべきだったのだ。それなのに、わたしは、何かの加減で生き延びてしまった。だがもう十分だ。最後の別れも済んだ」
「あなたは、いったい…」
 動揺するカイルをまっすぐに見据え、ザハークは再度口を開いた。その口元に、穏やかな笑みをたたえて。
「オロクのことをよろしく。あれは、つまらん意地を張るくせに、心の弱い男だから。」






 オロクは静かに目を開いた。頭がぼんやりしている。ずいぶん眠っていたようだった。体を起こそうとすると、そっと支えてくれる腕があった。ザハーク、といいかけて、違うことに気づく。
「カイル…?」
「ずいぶん、眠ってたねー。どう、すっきりした?」
「ザハークは?」
「オロクさん、先に自分の体のことを考えなきゃ」
「ザハークはどこにいる?ちゃんと食べているのか…おれが眠っているあいだ、あいつは」
「ザハーク殿は、死んだよ」
 カイルの声が冷たく響いた。オロクは言葉を失う。いっぺんに血の気が引き、めまいがした。すかさずカイルが支える。オロクは額に手を当てた。
「いったい、なぜ…」
 無様なほど、声が震えていた。カイルはじっと押し黙り、何も言わない。
「まさか、お前が…ッ」
「自然死だよ。オロクさんと同じで、あのひともずいぶん弱っていた。もう限界だったんだ」
「そんな……」
 呆然とするオロクの肩を、カイルは静かに抱きしめた。
「触るな」
 強い口調で拒まれても、力ずくで抱きすくめる。
「う、…」
 オロクは嗚咽をこぼす。しゃくりあげながら、「だって、あいつは、おれの名前を呼んでくれたんだ…。おれに、口付けて、おれの体に触れたんだ…」と、必死に訴えた。
「うん…信じるよ…」
「おれに、まだ死ぬなと…おれが死ぬなんて困ると…」
「うん…」
 少し開けた窓から、風にのって花のにおいが運ばれてくる。外は今、あたらしい命の息吹にあふれている。そのむせ返るような生命のなかで、一人の男の死を、オロクはずっとずっと悲しみ続けた。
 カイルの目にも、自然と涙が浮かぶ。
 ああ、自分はここまで人を愛することができるだろうか…目の前の憔悴したオロクの姿、そして、ザハークの死に様を思うと、カイルはただオロクを抱きしめるのに精一杯で、そんな自分の非力さに、なんだか泣けてくるのだった。



END

2008年3月2日 保田ゆきの

もしあの戦いでザハークが生き延びていたら、というifストーリーでした。
三者三様の愛し方ということで…。






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