赤の前夜


 湯船につかったとたん、涙がさめざめとあふれてきた。
 風呂にはいってひとりで泣く男なんて、考えただけでぞっとするが、あふれてしまったものはしょうがない。なんせ背中の傷が、水にしみて、痛くってたまらないのだ。その痛みから傷ができるまでのいきさつを思いだしては、自分の身の不憫さに泣けてくる。
 湯船の中で背をまるめて、肩をふるわせて嗚咽をあげる。自分の嗚咽を聞いてさらに気持ちがもりあがって、よけいに泣いてしまう。ああきっと、おれは泣きたいのだろうなあ、と、どこか冷静な自分が自覚する。
 風呂場のとびらが開いて、湯気の向こうから声がした。
「なにかあったのか」
 ひんやりした声だった。風呂場の熱がにげてしまいそうな寒々しさ。ザハークの声はいつだってそんな響きをしている。怒っていても、よろこんでいても、さえざえと冷えている。
「せなかが痛い」
 おれは駄々っ子のような声でそういった。言ってからすこし恥ずかしくなった。だがいまさら冷静にもなれずに、もういちど涙交じりの声で、
「せなかが痛いんだよ」
と訴えた。
 ザハークはおれを労わるようなそぶりは一切みせずに、
「のぼせるから早くあがれ」
と言って、ぴしゃんととびらを閉めた。おれの涙はぴたりと止まった。


 風呂からあがると、部屋ではザハークが、小箱を出してきて何かを探していた。
「探し物か?」
 おれは、さっきまで泣いていたのがうそのように、清々しい心地だった。だからザハークにも、ひょい、と話しかける。ザハークは箱の中身をかき分けたり、出して並べたりしながら、おれに言った。
「塗り薬をさがしている」
「くすり?なんで、また」
「さっき、背中が痛いと言っていたじゃないか」
 ザハークは手を止めておれをみた。何の疑いもなさそうなまなざしだった。おれは心底おどろいたが、そんなそぶりを必死で隠して、ああ、痛いよ、と平坦に言った。
「おまえが痛くしたんだろ」
「だから薬をさがしている」
 ザハークは小瓶をとりだして、あった、とつぶやいた。出した小物を整然とかたづけ、箱のふたをしめて、もういちどおれの顔を見て言う。
「あったぞ」
「ああ。ありがとう」
 すんなり礼の言葉が口からこぼれた。ザハークはすこし気をよくしたのか、ぬってやる、と呟くと、小瓶のふたをあけた。おれは着物をぬいで、裸のせなかをザハークに向けて座った。ザハークはおれのうしろに座る。
 つめたい指が傷をつたった。傷にふれられて、痛いのか、つめたいだけなのか、よく分からない。
「ひどい傷だな」
 まるで他人事のように、ザハークは言った。
「おまえがしたんじゃないか。そう思うなら、もうつぎからはやめてくれ」
 おれがそう言うと、ザハークは、ふ、と息だけで笑った。ザハークが笑うのはめずらしい。おれはその顔がみたくて、振りかえろうと首をひねったが、すぐに、動くな、と叱られる。
 おれはすなおに前を向き、ぼんやりうつむいた。ザハークの指は漫然とうごく。風呂にはいってぬくもった体が、すこしずつ冷えてきた。なのにおれは、ザハークの指づかいが心地よくて、ついうとうととしてしまう。痛いはずなのに、冷たいのに、なぜだか気持ちいいのだった。これではしているときと同じだ。おれは痛いのにいつだってきもちいいのだった。自分でもよくわからない。痛い、という感覚が、どこを通ると、きもちいい、に変換されるのか。解明できない。でもきもちいい。
 ザハークが手を止める。おれはやはり、うつらうつらと舟をこぐ。
 不意に首すじに口付けをされて、おれは半分眠った心地で、声を上げた。口のはじからよだれが垂れる。あわてて手の甲でぬぐって、ふりかえった。
「何だ、急に……」
「君こそ、よく眠れるな」
 ザハークの表情は硬く、声も冷たかったが、それでもこいつは面白がっているようだった。めずらしく陽気である。おれは目をこすって、むりやり起きて、
「もう、寝る」
と、子どものように言った。脱いだ着物を体にひっかけて立ち上がり、まっすぐ寝床へ向かう。布団の中へはいって、目をつむると、すぐにでも眠れそうだった。
 ザハークは遅れて寝床へ来た。自分も布団へ入るそぶりをしながら、不意に止まり、とつぜん、見ろ、と声を上げる。
「月がおそろしい色をしている」
「……月?」
 おれは目を開けて、窓を見た。ぽっかりと浮かぶ月は、かぎりなく赤にちかい色をしていた。橙いろ、赤茶いろ、そういった色合い。おれは目を細めてそれを見つめた。
「なんだか不吉だな。あしたは何か、よくないことが起こるぞ、きっと」
「君はそういう迷信をしんじているのか」
 ザハークが冷静な声でそういうので、おれはつい笑ってしまった。
「おまえが、おそろしいとか言いだしたんだろう。まあいい。もう寝る。おやすみ」
 そういってごろりと横になると、こんどこそザハークは布団の中に入ってきた。おれの髪だか、頬だかをすこしさわって、あとは何もせずに眠りにつく。
 おれはほんの少しだけ拍子抜けしながら、まあいいや、と目を閉じた。するとまぶたの裏に、さっきの月が白い影になってぽっかりと浮かんでくるのだった。あんなに見事な月なのに、色が赤いと言うだけで、おそろしく思うのはなぜだろう。そんなことをつらつらと考えているうちに、すぐに眠りの世界へ落ちてしまった。

 レルカーの街が、ザハークの手によって真っ赤に燃え上がったのは、その次の日のことだった。


おしまい

2009年12月5日 保田ゆきの






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