傷ついた心に 泥をかぶり、血に塗れ、息は荒く、目を血走らせたその姿は、見紛うことなく、ただの獣だった。 獣が、人の面をかぶって、笑みを浮かべ、二足で歩いているにすぎない。 自覚したとたん、あまりのおぞましさに吐き気がした。 相変わらずカイルは王子の護衛につき、あちこち飛び回っているようだ。もっぱら内務の多いオロクは、いまカイルがどこでなにをしているか知りようもなく、ただ旅の無事を祈るばかりだった。 資料を抱え、図書室から出ると、廊下が騒がしかった。側へ行って様子を窺う。 「何かあったか、」 近くに居た男に聞いてみた。男は顔をほころばせ、 「ああ、オロクさん。王子のご一行が、無事に帰ってきたようで。みなで出迎えているんですよ」 「……そうか」 ありがとう、と礼を言ってその場を立ち去った。どうせその輪の中にカイルはいないだろう。一人レストランへ向かい、図書室で借りた本をテーブルに積む。コーヒーを注文し、ぱらぱらとページを繰った。 カイルが、旅から帰ってきてすぐに、顔を見せなくなったのはいつからだろう。オロクは回想する。 最初はそうではなかった。本拠地に帰ってきたとたんに、ずかずかと部屋にやってきて、ただいま、無事戻りましたよ、と大声でわめくのが習慣だった。 そのたびオロクは、やかましい、わかったから少し休め、とカイルをたしなめた。しかしカイルは構わず、ただ嬉しそうに笑って、オロクさんも変わりなかった、と聞いてくるのだった。 それなのに今では、帰って来てから半日、下手すれば丸一日顔を見せないこともある。 最初はおどろいた。カイルだけ帰ってきていないのかと心配したりもした。大怪我をして動けないのか、それともはぐれてしまったか。 しかしそんな心配などどこ吹く風で、翌日、カイルはひょっこりと顔を見せた。 「ただいま、オロクさん」 間の抜けた声で言うのだった。 「カイル!おまえ、無事なら、なぜ顔を出さないんだ。おれがどれほど……」 心配、という言葉はなぜか胸に詰まっていえなかった。カイルはただほほ笑んで、そしてどこか辛そうな顔で、ごめんね、と謝る。 「オロクさんは、変わりない?」 やはりそう聞くのだった。 最近ではそれが当たり前になっていて、オロクももはや咎めはしなかった。ただ、ほんの少しだけでも顔を見せてくれたら、と思わないでもない。旅の無事を心底願っているのは、昔も今も変わらない。 コーヒーを飲みながら、周りの様子を窺う。レストランの人々に、慌てた様子や、不穏な様子はない。きっと今回の旅も、大した怪我はなく過ごせたのだろうと予想し、こっそり息をつく。どうしてこんな風に、安否を確認しなきゃいけないんだ、と皮肉な気持ちになりながら。 カイルはその日の晩に訊ねてきた。遠慮がちに扉を叩き、オロクが出ると、 「ああ……オロクさん。ただいま、」 とやさしい声で言うのだった。 やはり無事な姿を自分の目で見ると、安心する。オロクは息を吐き、「おかえり」と言った。ようやく肩の力が抜けた気がした。 「今回の旅も、無事だったようだな」 「うん、まあね。そう大きな怪我はしないよ。オロクさんも変わりなかった?」 「ああ。変わりない」 相変わらずのやりとりに、思わず笑ってしまった。カイルも目を細めて笑う。 「……じゃあ、それだけだから。しばらくは本拠地に居られると思う。夜遅くにごめんね、オロクさん。おやすみなさい」 「ああ、おやすみ……」 オロクがそういうと、カイルはほほ笑んで、廊下の奥へ消えた。 何かもっと、話したいことがたくさんあった気がしたが、よく分からず、ただほんの少しの寂しさを感じて、オロクはそっと扉を閉めた。 おれの帰りを待つひとが、 帰りを待ってくれなくなると思うと、 それが心底怖くて さみしくて、 どうにかじぶんを、つくろうことばかり考えてしまう。 下らないと分かっている、こちらの勝手な自己満足だと。 それでもそうせざるをえない、 帰りを待ってくれなくなると思うと。 その不穏な空気は、またたく間に本拠地中に伝わった。カイルの帰りを待っていたオロクは、さっと血の気が引くのを感じた。はやる気持ちを落ち着かせながら、騒ぎの渦中へ急ぐ。ちょうど、医務室の扉が閉められたところだった。 ざわめく野次馬に話を聞く。 「おい、中に運ばれたのは一体誰だ、」 「あ、ああ、なんでも、王子の護衛が怪我をしたとか……」 「護衛、」 不安に胃がざわついた。他の野次馬の会話が聞こえてくる。 「かわいそうにね、女の子だろ。傷が残らなきゃいいがね……」 「王子様もお辛そうだったね」 その会話を聞いて、オロクの頭の中で記憶が繋がった。怪我をしたと言うのは、王子の側にいる女性騎士のことらしい。けっして安堵しているわけじゃない。ああよかったなどと、これっぽちも思っていない。だがこみあげていた吐き気は、すこし収まってきたようだった。 群集がざわめいた。 オロクが顔を上げると、医務室の扉が開き、数人の女王騎士が出てきた。そのうちの一人はカイルだった。本拠地に着いたままの姿らしい、服は汚れ、あちこち綻び、くたびれていた。 ああ、無事だった。 無事だった……。 人垣をかき分けて進んでいくカイルに、オロクは近づいた。 「カイル、」 遠慮がちに声をかける。カイルはオロクを見て、一瞬、ひどく安心したような顔をした。だがすぐに顔をそむけ、足を早めようとした。 「カイル!」 慌てて呼び止めるが、カイルの足は早まる一方だった。追いかけようとすると、カイルの後ろを歩いていた女王騎士が、カイルの肩をつかんだ。 「いつもおまえのことを、待ってくれている人だろう。ちゃんと応えてやらんか、」 そう言ってたしなめ、自分が先に歩いていった。 カイルはこちらに背を向けたまま、ぽつんと立ち尽くしている。その背中に何を言っていいのかわからず、オロクはともかく側まで歩いていった。 「オロクさん……、ただいま、」 カイルはちらりとこちらを見て、そう言った。何を考えている?何に思い煩っているというのだ。オロクはもはや我慢できず、カイルの肩をつかもうとした。 が、カイルはすばやく身を引いた。 「カイル……」 わけが分からない。だが、不思議と腹が立たないのは、カイルが、ひどく傷ついた、寂しげな顔をしているからだった。 「……いったい、なにがあったというんだ。何を考えている?おれがなにか、おまえを傷つけるようなことをしてしまったのか?」 「違う、そんなことないよ、」 カイルは首を振った。ならなぜ、と問い詰める。 「オロクさん、あまり近づかないで、」 カイルはそう言って、じりじりと後ずさる。それから両手で顔を覆い、涙交じりの声で、 「こんなおぞましい姿、オロクさんに見られたくなかった……」 と、言うのだった。 おぞましい?オロクにはよく分からなかった。ただ、普段の能天気な様子から想像できないほど、深く傷ついているカイルの姿が痛ましかった。 「カイル、なんのことだ?」 「いやだ、来ないで」 カイルは首を振る。 「おれ、気付いたんだ。急に分かったんだよ。おれは、もう、獣といっしょなんだ。戦いに明け暮れて、血を浴びて興奮する獣だよ。ときどき我を忘れてしまうんだ。こわいよ、こわいんだよ、こんな姿、汚いよ」 「カイル、」 オロクはカイルの背に腕を回した。カイルはそれを振りほどこうとしたが、むりやり抱きかかえると、すぐ抵抗しなくなった。腕の中のカイルの体は震えていた。よほど嫌なのか、何かを恐れているのか、それは癒しがたいもののように思えた。 「オロクさん、はなして……。オロクさんまで汚れるよ、」 「おれはいい、おれは、おまえが無事だというだけで、それだけでいいんだ」 伝わるだろうか。こんな言葉で伝わるだろうか。 カイルの震えはとまらない。この男は戦場で、どれほど気丈に振舞うのだろう。戦いに参加しないオロクには知る由もないが、きっと、いつもの気の抜けた笑顔で、仲間を奮い立たせているのだろう。 内心でここまで傷つきながら。 「きっと、オロクさんも、おれのこと、嫌いになるよ。それでもう、おれの帰りなんて、待ってくれなくなるんだ……」 カイルの声は掠れてよく聞こえない。オロクは、ただ、そんなことない、そんなことないと言うのに必死だった。 言いながら、改めて人間の心の複雑さを、噛み締めていた。 おしまい 2010年1月19日 保田ゆきの |
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