忘れてくれるな



「おまえ、もう、レルカーに来なくていい、」
 つめたくて硬質な声だ、確かに自分の口から飛び出した言葉なのに、おれはその素っ気なさに自分自身で呆然とする。立ち尽くすおれの耳に、川のせせらぎがむなしく聞こえてくる。おれはその静けさが怖くて、またすぐに口を開いた。
「来なくていい……こんな、途方もない作業に関わってる暇なんて、お前にはないだろう」
 カイルはだまって突っ立っていた。呆れているか、驚いているか。とても顔なんて見れない。
 レルカーの穏やかな川の音が聞こえる、それほどに静まり返った空気、それがおれにはどうしようもなく苦痛だった。今のなし、なんてうっかり言いそうになる。おれは舌打ちをするような勢いで、早口に言った。
「あとはおれたちだけで十分だ。だからもう」
「オロクさん」
 唐突に、カイルの声が割って入った。ひどく淡々とした声だった。
「オロクさん、おれのこと、嫌いになっちゃったの」
 どこがどう繋がるとそういう話になるんだ、とは、とても言えない雰囲気だった。おれは唾を飲み込む。
「おれは何だってしてあげたいのに……」
「それが、」
 おれはようやくカイルの顔を見た。カイルは遠くを見つめるような目でおれを見ていた。思わず怯みそうになる。だが、ぐっとこらえる。
「それが、……心苦しいから、言ってるんだ。おまえにはおまえの仕事があって、おまえを待っている人間も居るのに、おれなんかにかまけて、おまえの時間がもったいない…」
「ずるいよオロクさん」
 ぴしゃり。言い放つカイルの声に、ようやく感情が混じる。
「ずるい、そんな言い方ってないよ。逃げてる。けっきょくオロクさんはどうしてほしいの。おれの気持ちは痛いほど分かっているくせに。ひどいよ」
 カイルは一度溢れるととまらない、という風に、おれに向かってまくし立てた。おれは何も言い返せない。胸に突き刺さった棘をそっとひとつひとつ抜いて、傷口をなでるので精一杯だった。
「……今日は帰る」
 カイルはそう言ってきびすを返し、船着場へ去っていった。遠目に、目元をこすっているのが見えた。泣くなよ、そんなことで、大の男が泣くなよ……おれは背中にそう語りかける。



 本当は、…
 おれは考える。
 本当は、こわい。おれは怖がっている。カイルが、おれやレルカーを慕わなくなって、ぷい、とそっぽをむいて、どこかへ去ってゆくのがこわい。あいつのあの軽やかさが怖い。
 そんなとき、カイルはきっと、添っていたおれの心をめりめりと引き剥がし、ぶんどって、ぽい、と捨て、朗らかに笑い、自身はなにも傷つかないで、楽しげに行ってしまうのだろう。別にいい。それでもいい。だが、残されたおれの心がどれほど傷ついているか、血を流し、膿みただれ、きっともう元には戻れない。かもしれない、のが怖い。
 おれは怖がっている。
 そういう未来を勝手に想像して、それがあまりにリアルでおそろしくて、もう、カイルに添うことをやめたい、そんなところまで、気持ちがいってしまっている。
 それだけだ。
 それだけのことなのだ。



 カイルはもう来ないかもしれない。ぼんやりそう思っていたおれを尻目に、翌日もカイルはレルカーにやってきた。おれは、何か言うべきだろうか、と迷った。カイルはおれを見つけると、ずんずんとこちらに近づき、おれが後ずさってしまうほどの距離で大口を開いた。
「女王騎士、やめてきた!」
 はっきりした口調で言い放つ。
「これで文句はないでしょう。オロクさんが何を気に病んでいるのか知らないけど、おれはおれの好きなようにするからね」
「おまえ……正気か、」
「正気だよ。まあ、多少は勢いもあるけど。ともかくやめたもんはやめたんだから、おれ、ここにいてもいいでしょう」
 カイルはぎらぎら光る目でおれを見た。おれはどうすればいいのだろう。素直に喜べない、この、胸のつかえはなんだ。こんなにもひょい、と軽く、大切な物を手放すカイルを見て、おれは、不安こそ感じるが喜びはない。むしろよっぽど恐ろしい。いつかおれも、こうして、手放される。
「オロクさん!」
 カイルが大声でおれを呼んだ。はっとして、顔を上げる。
「オロクさん、おれのこと信じてないでしょう。信じてないから、そんな暗い顔をするんだ。でも、じゃあ、どうすりゃいいんだよ。おれはどうすればいいの、」
「カ、カイル……」
「おれはオロクさんと一緒にいたいっつってんのに、それなのにオロクさんがぐちゃぐちゃつまんないこと言うから、だから女王騎士もやめて、身一つでこっちにきたのに。ねえ、どうすればオロクさんは、おれをそばにおいてくれるの。戦いの最中のほうが、よっぽど、よっぽど距離が近かった・・・…」
 カイルは鬼気迫る調子でそう言った。それからふと、顔を上げて、急に手を伸ばし、おれの腕をつかんだ。おれはとっさに体をひいたが、カイルの力にはかなわない。
「そうだ」
 カイルはおれの腕をぐいとひっぱり、体を寄せる。
「もう、いいや。さらっちゃおう。ね、おれと二人で行きましょう」
「な、な、……」
 絶句する。カイルはけっして冗談を言っている風ではなかった。レルカーの住民達が、喧嘩か、と遠巻きにこちらを見ているのが分かる。
「いやだ、」
 おれは初めて大きな声をだした。
「いやってなにが嫌なの、」
「いやだ、おれはレルカーを捨てたくない」
「でもおれはオロクさんをさらっちゃうもんね」
「だめだ、カイル、お前も一緒にしてほしい。レルカーを……一緒に……」
 そう口に出して、とたんにおれはうなだれた。体から力が抜けていく。思わずふらつきそうになったのを、カイルがやさしく支えてくれた。
「お前が……飽きることなく、おれと一緒に……いてくれたら、」
 それだけなのだ、おれの心の奥、どうしてもどうしても欲しくてたまらない約束は。
 カイルはおれの顔を覗きこんで、やさしく笑った。
「ふふ。おれは最初から、そう言ってるのに。」
 声に責める調子はない。ただ、ばかだなあ、とか、そういう軽口のように、やさしく言うのだった。
「信じてよー、おれはわりと軽薄だけど、ちゃんと、大切なことは守るよ」
「……おまえが思っているより、ずっと、おれのほうが、お前を失いがたいんだ、それを、忘れてくれるなよ」
「熱烈だなあ、オロクさん」
「茶化すな、よく聞いてくれ。お前が思っているよりずっとだぞ。ああ、今話しながらつくづく思った。きっとおれは耐えられないよ。本当にもう、信じていいな。ずっと、おれと一緒に……」
 おれは自分が何を口走っているのかよく分からない、それが本心なのかもよく分からない、ただあふれ出す思いをひたすら言葉にして、カイルにぶつけるうちに、胸のつかえが取れていくのを感じていた。
「カイル、お前がこうしておれを慕って、うざったいほど、まとわりついてくるのに、おれが今までどれほど救われたか知ってるか。知らんだろう。おれはそんなそぶり、少しだってお前に見せなかったよ。おれがいくら素っ気なくしても、それでも来てくれるお前がうれしかった。それだけじゃない、そんなのほんの一部でしかない。もっとある、恩も感謝も思いも絆もある、そうだろ、それを、頼むから、おれから奪うな。ずっとそばにいてくれ。いてくれるだけでも十分だ…」
 ああ、今まで胸の奥で燻っていた思いが、痛みを伴って溢れ出す。
 おれはしばらく黙ったあと、そっと顔を上げ、カイルを見た。そして、息を呑む。
 カイルは、目を真っ赤にしていた。目だけじゃない、鼻も、耳も、あちこち赤くして、唇をかみしめ、泣くのを堪える子どものように、ふるふるとまぶたを震わせている。そしておれと目が合うと、気まずそうに目元を歪め、はにかんで小さく笑った。
「人に、想ってもらうことが……こんなにうれしいなんて」
 カイルは涙交じりの掠れた声でそう言った。言い終えたとたんに、嗚咽を上げて泣き出した。それを聞きながら、おれはこいつに、もう来なくていいと言ってしまったのだなあ、と、改めて思い出す。大声で泣くこの男は、全身全霊でおれを求めていると、ようやく気づいて、我が身の残酷さに震える思いだった。
 おれはカイルの涙を拭った。拭っても拭っても拭いきれない涙を、延々と拭った。やがて涙が止まるころ、次に涙を流すのはおれのほうだった。



おしまい

2010年5月30日 保田のら






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