生きてゆける


 見てはいけないものを見てしまった。
 いや、見てはいけないというより、見えてはいけないものを。


(死ぬ、死ぬ)
 おれは早足でを駆け抜けた。わき目もふらず、まっすぐに。突き当りまで来ると、今度は一気に階段をのぼる。とにかく甲板に出たい。太陽を浴びたい。
 俺は勢いよく甲板に出る扉を開けた。けたたましい音に、キカ様や、騎士団の連中、忍者の連中が一斉にこちらを見る。
(ああ、太陽だ……)
 助かった。おれはへなへなとその場に座り込む。心配しているのか、面白がっているのか、とにかくシグルドがこちらに近づいてきた。
「何かあったのか?」
 甲板にいるほかの面々も、このやりとりに注目している。おれは思い切り息を吸い込んで、大声で言った。


「出たんだよ、ゆ、ゆ、幽霊ってやつが!」



 場の空気が張りつめる。みんな、それこそ幽霊を見るような目でおれを見た。騎士団の連中はケネスが遠慮がちに話題を戻し、忍者の連中はアカギがごり押しで話題を戻した。キカ様はさりげなく海に視線を戻す。
(なんだなんだ)
 どういう意味だ、お前ら。まさか信じていないのだろうか。このおれが、幽霊を見たことを。
「……ハーヴェイ……」
 シグルドが半笑いでおれに手を差し出した。おれは遠慮なくそれにつかまり立ち上がる。おれの手が離れると、シグルドは口元に手をやった。そして考え込むようにうなる。
「……幽霊なあ……。そうか、そうか……」
「お、お前まで、おれを疑うのかよ!」
 なんて友達甲斐のないやつだろう。おれはぎらぎらとシグルドをにらみつけた。シグルドは少しひるんだように身を引いて、そんなに睨むなよ、と笑う。
「しかしなあ……。まあ、こんなご時世だから、怪物のたぐいは出てもおかしくないさ。幽霊だって……まあ……いるかもしれない」
「だろ!?」
「だがな、ここはの中だぞ。しかも今は真昼間だ。人間が沢山いて、夜でさえ賑やかなこの船のどこに幽霊の居場所があるんだ」
 シグルドの言うことはもっともだった。おれはぐっと言葉に詰まる。しかし、見たものは見たし居たものは居た。そうとしか言えないじゃないか。
「いくらおれだって、こんな馬鹿みてえな嘘はつかねえよ。……なあ、そうだろ?シグルド」
「……」
 おれが真剣な声音でそういうと、シグルドもいくらか真剣な顔で黙った。そして小さくうなづいて、わかった、という。
「とりあえず、その場所に行こう」
「げっ……本気かよ」
「もちろん」
 シグルドは笑って、おれを無理やり前に立たせ、さあ案内してくれよ、といった。
(行きたくねー……)
 なんで幽霊に会いに行かなきゃいけないんだ。おれはそう思ったが、シグルドが少しでも信じようとしてくれたことが嬉しかったから、仕方なく甲板を後にした。












「ここか?」
 シグルドの問いに、おれは頷いた。第5甲板の奥にある牢屋。で唯一いわくありげな(気がする)場所だ。なんだか寒気がして、おれはぶるりと震える。
「……いないじゃないか」
「逃げたんじゃねーの、」
 おれは適当に答える。シグルドは小さくふきだして、逃げたのならよかったじゃないか、といった。そりゃそうだ。おれは納得する。
「なんだったんだろうなあ」
 首をひねって考えるが、答えは出ない。シグルドは、
「まあ、ちょっと涼しくなってよかったな」
といった。あいかわらず能天気なやつ。だがおれも負けないくらい能天気なので、そうだな、と笑った。



 突然、影がおれたちを覆った。


(なんだ、これ……)
 真っ暗だった。
 何も見えない。自分の姿さえ。声を出そうにも、まったく出ない。
 突然のことにおれはパニックになる。静寂の中で、おれの脳みそだけが慌てている。しかし自分さえ見えないので、自分が慌てているのか、いや、そもそも自分は居るのか、それすら分からない。
 おれに声があれば、何万回叫んだって足りないくらいの、恐怖だった。

(……シグルドは……どこだ……)
 闇しかなかった。ほかには何もない。音も感覚も何も。
 おれがこの世界に抗うのを諦めたとき、ふと、何かが聞こえた。音を聞くのが久しぶりに感じた。おれはそっと耳をすます。
 声のようだった。おれは自然と、シグルドか、と思った。上下左右分からないまま、じっと耳を凝らす。
 声はか細く、震えていた。泣いているようでもあった。

『もう、許してくれ……』

 おれはぞっとした。
 この声はシグルドじゃない。
 この声は、この、か細く震える情けない声は、

(おれだ……)

 思わず耳を覆いたくなる。しかしおれには実体がない。耳、なんてものが始めからないのかもしれない。
 声はずっとずっと響き続けた。そして闇の中にぼんやりと、光が現れる。光の中に船があり、人が居る。

『許せだァ?捕虜がなにほざいてんだ』
『楽になりたいなら、舌でもかんで死んでみせろや』
 この声を聞いただけで震える。これは、まだおれがキカ様に拾われる前、正確には拾われる直前の、出来事だ。
 あまりに情けない。下らない。されるがままだったおれの、

『死にたく……ない……』

 生にしがみついた、おれの、記憶だった。

(死ね、死んでしまえ)
 おれは呪った。過去のおれを、心のそこから呪った。
『もう……いやだ、』
(いやなら、死ねばいい。醜態をさらしてまで生きようとするんじゃねえ)
 おれを貶める男たちが、おれを見下ろして笑う。おれは唇をかみ締め、じっとこの時が過ぎるのを待っている。

(死ね、死ね)

 目の前のおれは涙を流し、体中に傷を作り、それでも 生きたい と願っている。
(死んでくれ……)
 おれは途方もなく悲しい気持ちで、そう、祈った。



……死にたいだろう、苦しいだろう

 まったく異質の声が、突然響いた。過去のおれが霞んで消えてゆく。異質の声だけが暗闇に響き渡った。

……恥をさらしてまで生きるのか?汚らしいお前に皆が気づいているのに?

(ああ)
 おれの精神が揺らぐ。死、がとても魅力的な誘いのように思えた。恥と醜態をさらして生き延びたおれの誇りを、唯一取り戻す方法のような気がした。

……己の引き際を見定めよ。そうまでして得た生に何の価値があるのか
……そうだ、大切なのは覚悟だ
……死をもって誇りを取り返す覚悟だ!





(おれは……)






 気がつけば、目の前一面が海だった。

 果てなく遠い水平線と、今にもおれを飲み込まんとする波。
 おれは吸い込まれるように、海へ落ちた。
 がぼがぼと、水の音が耳にうるさい。服が体にまとわりつき、ずしりと重くなる。深みへ、深みへと落ちていく。不思議と穏やかな心地だった。まるで眠るときのように、おれは、そっと目をとじた。

(強くてやさしいキカ様、間抜けな相棒シグルド、愛するべき馬鹿のダリオ、)
(……またな)

 海がおれの汚れた心と体を浄化してくれているような、そんな、しあわせな心地だった。
















「すまなかったな。礼を言おう」
「なにがすまない?わたし、仲間をたすけただけ」
 リーリンはそう言って、店へ戻っていった。キカは医務室に運ばれていくハーヴェイを、静かな瞳で見送る。となりではシグルドが、沈痛な面持ちでそれを見守っていた。
「……なにがあった」
 キカが言う。シグルドは臆することなく、
「たぶん、幽霊のしわざでしょうね」
と、真顔で言った。キカはしばらく黙り、そういうこともあるか、とそっけなく言った。あるんでしょうね、とシグルドも淡々と返した。















 女が泣いている。牢屋の中で、さめざめと。どうやらの牢屋ではないようだ。もっと陰湿で、暗い、海賊船のような船だった。女は自分で自分の体をだきしめた。そして、う、う、と震えながら泣く。どうしてわたしがこんな目に……そんな声が聞こえた。泣いて、泣いて、泣きとおした後、女はぽつりとつぶやいた。
「わたしは、すべてを失ってしまった……」
 そして牢屋の壁に、ガン、と頭をぶつける。何度も何度もぶつける。こんなところで下卑た男たちのおもちゃになるくらいなら、いっそ、死んでやる。
「死んでやる!」
 女はひときわ大きく叫び、鎖をつないでおくような金具に向かって、頭を振り下ろした。そしてずるずると、壁を伝って静かに倒れた。
 しばらく女は倒れたまま、微動だにしなかった。汚らしい牢屋に女の血だけがはっきりとした色で浮かぶ。そして、女は、いった。

「 ……いや……死にたくない……」

 死にたくない。どうしてわたしが死ななくてはいけないのか。誇りなんてどうでもいい。死にたくない。ああ、なんて愚かなまねを。わたしは、なんて、愚かな。どうしよう、死にたくない。血が止まらない。意識が朦朧とする、でも死にたくない。生きたい。生き延びたい。私が自殺なんて。下らない。自殺なんて一番下らない死に方。死にたくない、助けて、死にたくない!


(……幽霊の、正体か)
 まどろみのなか、おれは、悟った。
 おれと同じような境遇に立ち、それを苦に自殺を選び、そして心の底から後悔して、死んでいった女。
(自殺なんて、ばかがやることだぜ)
 おれは今、はっきりとそう思えた。しかしもう遅い。おれは死んでしまったのだ。海に飛び込んで死んだ。

(ああ、おれは今、こんなにも生きたい)
 心の底から、こんなにも激しく。



















「ああ、やっと起きたか」
 いつもどおりの、間の抜けた声が聞こえた。おれの目に飛び込んできたのは、木でできた天井と、のんびり本なんて読んでいるおれの相棒だった。体を起こそうとしたが頭が重くて上がらない。仕方なく目線だけで、そちらをちらりと見た。
「……シグルド……」
「よく眠っていたな」
 シグルドは本を閉じ、おれの顔を覗き込む。
「どうだ、どこか具合の悪いところはあるか?」
「頭が、ばかみてえに重い……」
「きっと酸欠だろうな。ほかには?」
「………………」
「ハーヴェイ?」
 急に黙り込んだおれを、シグルドは心配そうに見た。じりじりといやな沈黙が続く。おれは静かに聞いた。
「……おれ、死んだんじゃなかったのか」
「なんだ、そのことか」
 シグルドは笑った。それがあんまりに軽い、当たり前だという調子だったので、おれは逆に胸がざわざわとした。一体どうなっているんだ。おれにはまったく分からない。
「あとで、リーリンに礼を言っておけよ」
 シグルドの言葉に、おれは思わず聞き返す。
「……あの、人魚の?」
「ああ、そうだ。さすがに彼女は、泳ぐのが上手だったな」
 泳ぐのが上手。ああ、そうか、おれは理解した。海に飛び込んだおれを引き上げてくれたのは、リーリンだったのだろう。その光景を想像しただけで、おれは自分の情けなさに震えた。まったく愚かだ。
 おれの沈んだ表情を見て、シグルドはしばらく黙った。そして、不意に明るい調子で口を開いた。

「……牢屋でな。おまえが急に倒れて、しかもひどくうなされている、さすがにおれもびっくりしてな。医務室にユウを呼びに行こうとしたんだ」
(急に倒れた?)
 おれは目を丸くする。そんな覚えは少しもなかった。
「すると体が動かない。まあ、あれかな、金縛りっていう……。それでおれが何もできずに、声も出せずにいると、お前がすっと立ち上がったんだ。そしてふらふらっと行ってしまう。どう考えてもいつものお前じゃなかった。そう思ったら、何だかお前の肩あたりに、ぼんやりとした影が見えてきたんだ」
「…………」
 おれの肌が、ぞくりと粟立った。シグルドは淡々と続ける。
「あんまりいい女じゃなかったなあ、うん」
(……ったく、こいつは)
 重大な話のはずなのに、どこか力が入らないのは、シグルドが変なところで飄々としているからだ。まったくいただけない。
(でも、救われる)
「影が女の形になって、ああこいつがハーヴェイの言ってた幽霊か、と思った。けれどおれは動けなくて、しばらくじっとしていた。お前の姿が見えなくなったとき、やっと金縛りが解けたんだ。あわててお前を追いかけた。お前はふらふらと階段を上って、後部甲板の扉を開けていた。そしてそのまま、」
(海にどぼん、だ)
 おれが見た一面の海は、後部甲板からのものだったのか。それにしてもシグルドの話す話に、いまいち実感が湧かない。おれ自身が体験したはずなのに、まるで上手くできた怪談を聞かされているみたいだ。
「……あとはまあ、大変だったな。あいにくおれは泳ぎに自信がなかったから、助けを呼びに船内へ戻った。それ以前に、船自体を止めてもらう必要もあったしな。呆けている間にお前をおいてすいすい行ってしまう。さすがに混乱したさ。偶然であったキカ様に指示を出してもらった。おれは、まだまだだな」
「……そんなことねえさ」
 お前がいなけりゃ、おれは死んでいた。おれは心の底から感謝の気持ちを込めて、そういった。シグルドははにかむように笑う。

「ハーヴェイ」
「……なんだよ」
 まだ何かあるのか。これ以上自分の失態を聞かされるのは、辛かった。しかしシグルドは、目をやさしく細め、やわらかく笑う。

「辛かったろう。……今はゆっくり休めよ」
 そう、言った。




(辛かった……)
 おれの心を、熱い何かがじわじわと侵食していく。
 言葉が、気持ちが、急におれから溢れだした。
「お、おれ、死にたかったんだ、死のうと思ったんだ、心の底から」
「…………」
「でも、海に飛び込んだら、生きたくなった。あの時以上に惨めで、情けないって分かってたけど、どうしても生き延びたくなった」
 言葉がとまらない。重い頭を抱えて、おれは気持ちを吐きつづける。シグルドは静かな瞳で聞いていた。
「おれ、おれは……」
 不意にシグルドが、おれの右頬に手を押し当てた。そのあたたかさにおれは安心する。シグルドの親指がおれの目の下にある古傷をやさしくなぞった。
「おまえはもう、乗り越えたじゃないか。これ以上苦しまなくていいんだ」

 もう、何もいらなかった。
 おれの目にはじわりと涙が浮かび、そのたびにシグルドがそれを親指でやさしく拭った。嗚咽が漏れそうになったら、やさしく髪を梳いた。
(あの女には、こうやって、支えてくれる人間はいなかったのだろうか)
 いまおれが生きてゆけるのと同じような存在は、なかったのか。だとすれば、なんて切ないんだろう。
(おれが祈る)
 シグルドの手はやさしい。おれは、悔しいが、この間抜けな相棒がいるから生きていける。
(おれが、祈ってやる)
 あの女が、せめて次は幸せに生きてゆけるように。


「でもこんな新しい船に、なんで幽霊がいたんだろうなあ」
 シグルドがおれの髪を梳きながらそういった。この船に何か惹かれるものがあったのか、たまたまなのか、それとも……。考えればきりがないが、これだけは言える。
「……ま、もう二度とこうやって人にとり憑くことはないだろうぜ」
「なぜだ?」
「ハーヴェイさまという恋人ができたから」
 そういうと、シグルドはおかしそうに笑った。おれもいっしょに笑う。あのあまりに寂しく切実であった女も、どこかで笑っていることを願って。


おしまい

試しに書いてみたふたり……長い!ハーヴェイの過去はまるっきり捏造です。あのあと船がキカ率いる海賊に襲われてそのとき拾われて〜と、捏造するにしてももっと考えろよ、ていう感じでごめんなさい。
この二人はもっともっと煮詰めたいです。ああたのしい…!

2004年8月26日 保田ゆきの








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