エルイール近海をまわる哨戒船が帰ってきたようだ。おれは部屋で許可状やら誓約書やらに目を通しながら、窓越しにそれを見た。もう太陽が傾き始めている。そういえば、あの船に乗っているのはヘルムートだったろうか。ぼんやりとした記憶をたどる。ああ、やはりそうだ。出航のとき、いつもどおりの堂々とした訓示をしているヘルムートを、おれはこうやって、窓越しに見ていたじゃないか。
 思えば船が出てから帰ってくるまで、ずっと部屋にこもりきりだったのだ。いい機会だ、少し外に出ることにしよう。
 そう思ったおれは書簡を、とん、とん、ときれいにまとめ、机のはしに置いた。いすから立ち上がり、伸びをする。首と肩がこきこきと鳴った。





「……以上、以後気をつけるように。復唱!」
「以後気をつけます!」
「よし。では、解散」
「はっ」
 遠巻きに、ヘルムートとその部下の声が聞こえてくる。おれが言うのもおかしな話だが、あの若さでよくやる青年だと思う。常に冷静であるし、判断力もいい。何より、自分の確固たる倫理観を、しっかり持っている。それがおれにはひどく好ましく思えた。
 ヘルムート、と声をかけた。彼はふりかえり、さっと居直る。
「トロイ殿。報告でしたら、わざわざお越しいただかなくとも、わたし自ら伺いましたのに」
「いや、いいのだ。今日はずっと部屋にいたからな、気分転換もかねて外に出てきただけだ」
「そう、でしたか」
 ヘルムートは恐縮だ、と言わんばかりに目を伏せ、軽く頭を下げた。
「エルイール近海、異常はありませんでした。ただ、海にいる怪物はすこし凶暴さを増しているようです。兵士たちに再三の注意が必要であると思われます」
「そうか。分かった」
 ご苦労だったな、おれがそういうと、ヘルムートはまた目を伏せ、いいえ、といった。
「……それでは、わたしは哨戒船の点検をして参ります」
 ヘルムートはそういうと、くるり、とこちらに背を向けた。そういえば、ヘルムートはイルヤ島の様子も見てきたのだろうか。点検に向かってもらうのは、それを聞いてからにしよう。おれはそう思い、とっさにヘルムートの二の腕をつかんで、あとひとつ聞かせてくれ、と呼び止めた。

 ヘルムートはびくりと肩を震わせ、まるでなにかの発作のように、おれの手を勢いよく払いのけた。

 とても心地の悪い空気が流れた。払われた手がじわりと痛む。しかしそれ以上に、目の前でおびえた目をしているヘルムートのほうが気がかりだった。
「……ヘルムート、どうした?」
 ヘルムートは自分の二の腕と、おれの手を払いのけた自分の手を、交互に見つめている。自分でもどうしてこうなったのか、よく分からないようだ。
 ヘルムートはおれを見た。すがるような目で、それでも気丈に、おれの目をまっすぐに見ようとする。
「も、申し訳、ありません……」
「そんなことはいい。一体、どうしたというのだ。何か、あったのか?」
「何も……!」
 とつぜん、ヘルムートが大声を上げる。その鬼気迫る表情に、おれは圧倒された。ヘルムートの肩が、細かくふるえだす。その肩を自分の手で押さえつけ、顔を伏せた。
「……お、おれは……何も……」
 おれはどうしていいのか分からなかった。安易に彼に触れてしまうと、先ほどのように余計に彼を追い詰めるかもしれない。しかし今のヘルムートは、一人で立つにはあまりに頼りなく、心細いように見えた。
 とつぜん、ヘルムートの体がふらりとゆれた。
 おれはとっさにそれを受け止める。ヘルムートは自力で立てないのか、全体重をこちらへかけていた。これはいけない、と改めて抱えなおすと、彼の銀髪がはらりと首すじでわかれ、白いうなじが見えた。元々白い肌が今は、蒼白と呼んでいいくらいに弱々しい色をしている。
「ヘルムート、ヘルムート!」
 呼びかけても反応が無い。気を失っているようだ。
「……いったい、何があったというのだ……」
 さきほどの取り乱しかたは、尋常ではなかった。心の奥の、ふれられたくない部分を無理やり抉り出されたような、そんな痛みと拒絶。そう、感じた。
 おれはヘルムートを抱え、ともかく要塞の中に運ぼうと急いだ。










 医者のところへ運ぶか、それとも――。おれは、迷った。ヘルムートは明らかに、何かを隠したがっている。それが暴かれ、そして周りに知られるのをひどく恐れている。すると、今ヘルムートの意識がないうちに、おれが勝手に医者のところへ連れて行くのは、結果的に彼を傷つけてしまうかもしれない。しかしもしこれが、手遅れになるようなものだったら――。
 おれは迷った挙句、ひとまず自分の部屋にヘルムートを寝かすことにした。
 呼吸も安定している。きっと大丈夫だろう。まだ少し不安も残るが、ヘルムートが目覚めてから彼自身に体調を聞いてもいいだろう。
 あいかわらずぐったりとベッドに横たわるヘルムートの、窮屈そうな鎧をはずす。きちりととめられている首のボタンをくつろげ、同時に手首のボタンもくつろげた。
「……?」
 おれは、思わず目を見張る。
 ヘルムートの手首には、うでに沿うようについたみみずばれがあった。まさか、と思ってそでをめくる。ひじまで上げると、みみずばれも同じようにひじまで続いていた。しかもまだ途絶えていないようだ。
 こんな傷、どうやったらつくというのだ……。おれは不審に思う。みみずばれは、強くひっかいたりしたときにできるものだ。こんなに長く続くみみずばれなど、故意につけなければ、できるはずがない。

 故意に?

 おれは自分の考えに、ぞっとした。誰かがこれを、ヘルムートの体に刻んだというのか。まさか、そんなことはありえない。
 おれは多少の希望も含めながら、ヘルムートのそでを戻した。とにかく、本人に話を聞かないことには始まらない。
 おれは祈るような気持ちで、ヘルムートが目覚めるのを待った。




「――ッ!」
 声にならない声を上げて、ヘルムートは突然目覚めた。震える息を吐きながら、必死に今の状況を理解しようとしている。おれは椅子から立ち上がり、ベッドへ歩み寄った。
「……大丈夫か?」
「……トロイ、殿……」
「どこか、辛いところはあるか。異常を感じるところは?まだお前を医者には見せていないのだ」
 そういうと、はっとしたようにヘルムートはおれを見た。そして、少しあきらめに似た瞳を細め、小さく首を振った。
「…………この傷を……」
 ヘルムートは俯き、言う。
「この傷を、見ましたか」
 さきほどの、みみずばれのことだろう。おれは正直に、ああ、と答えた。
「介抱しているときに、たまたま見つけてしまった。……すまない」
「いいえ、もう――」
 もういいんです、ヘルムートは吐き捨てるような調子で言った。おれは何も言えず、ただヘルムートを見守るしかできなかった。
 ヘルムートは何も言わずに、シャツのボタンをはずし始めた。その表情はあまりに淡々としていて、逆に悲痛感が漂う。すべてのボタンをはずすと、ヘルムートはシャツを脱いだ。先ほどのみみずばれが、完全な形で露わになった。
 それだけではなかった。
「どうして」
 おれは思わず、ヘルムートの肩を両手でつかんだ。ヘルムートはびくりと体を震わせ、硬直したように俯く。
「いったい誰が……」
 みみずばれが、手首からうでを這うように続いている。ひじの裏側を通り越し、二の腕の裏側まで、一直線に。そして、その二の腕には、あからさまな鬱血の跡があった。それもまた、そこだけではすまない。二の腕から、鎖骨、胸、わき、脇腹、そして下腹部にいたるまで、点々と、散らばっている。
 どうしてこんなことに。
 おれは、この湧き上がる怒りと、やるせなさを、どこにぶつければいいのか分からなかった。自然に、ヘルムートの肩をつかむ手に力が入る。ヘルムートは、痛い、というふうに身をよじった。
「誰がやったのだ」
 強い語気でそう言い放つ。ヘルムートは怯えと屈辱を必死に隠しながら、
「……いえません」
と、いった。
「なぜだ。軍の人間なのか。どちらにしても、こんな下らぬ真似をする人間には、しかるべき処分を課すべきだ」
「……言えば、軍全体の士気に、かかわります」
 おれは、はっとした。
 ヘルムートの表情が、あくまでも軍人としての意思を貫き通すそれだったからだ。そうだ。軍人は、いかなる場合でも私情をはさむべきではない。それを彼に教えたのは、ほかでもないおれ自身なのだ。
 おれは、悲しくなった。それが何のせいなのか、はっきりとは分からない。ただ悲しい。ヘルムートがこうやって、自分を貶めた相手の名を、大義のためにかみ殺してしまう、それがたまらなく悲しく思えた。
 思わず、おれの手をヘルムートの頬にのばした。やさしく、安心させるように、そえる。おれの不器用な手つきは、それでもヘルムートに伝わった。戸惑うヘルムートにおれは言う。

「……では、言葉を変えよう。軍人としての、トロイではなく……、幼少のころからお前の友であり、兄代わりでもあった、一人の男として、問おう。大事なおまえを踏みにじられたこのおれの、憎しみを、怒りを、ぶつけるべき相手は……だれだ」
 ゆっくり、諭すように言う。おれの言葉とともに、ヘルムートの表情が、見るからにくずれていった。目からほろりと涙がこぼれおちる。うう、と声を上げて俯く彼を、おれはそっと抱きしめた。
 そうだ。辛いことがあればこうして、いつだって、受けとめてやったじゃないか。馬鹿だな、お前は。いつだっておれはこうしてお前を受け止めてやれるのに。
 おれの背中に、ヘルムートの細い指がくいこむ。おれの胸はヘルムートの涙で濡れる。おれはそっと、ヘルムートの背中に手を回した。白い肌に手をそえると、彼の背中は思ったよりもあたたかかった。
「トロイ様、おれ、怖かったんです、情けないって、自分でも、よく分かっています。でも、すごく怖かった……」
「ああ」
「でも、おれが一番こわかったのは……いやなのに、いやで、たまらないのに……おれが、すごく、浅ましくて、厭らしい、愚かな人間なのだと、自覚したときです」
 掠れた声から、ヘルムートの苦しみや、悲しみが痛いほど伝わってきて、おれはもう聞いていられなかった。ぐっと力を込めて抱きしめ、髪を梳き、言う。
「お前は、浅ましくも、厭らしくも、愚かでもない……自分を貶めるな、ヘルムート。お前はいつまでも、おれの誇るべき片割れだ」
 本心から、そう言った。ヘルムートは小さくうなづく。ありがとうございます、と言う、消え入りそうな声が聞こえた。
 おれはヘルムートの顔を見ずに、
「……クレイか?」
 そっと、そう聞いた。ヘルムートは、否定も肯定もしなかった。ああ、と思う。おれはすべてを悟った。
 それからは、おれも、ヘルムートも、何も言わなかった。おたがいの体温を、触れているところすべてで感じあう。
 おれはヘルムートの穏やかな呼吸に耳をすませる。ヘルムートの胸から伝わる鼓動の音を聞く。
 きっとヘルムートもまた、そうしてそっと耳をすませているのだろう。互いに、完全に安心し、無防備にすべてをさらけ出し、分け合う。それがこんなにも心地のいいものなのだと、おれは、今はじめて気づいたような気がした。




 長……。何が言いたかったかというと、クレイはえげつない(萌)ということです。トロイとヘルムートは、おたがい抱きあっているだけでほっとして満足してそうなイメージです。あ、あと、ナチュラルに「幼少のころからお前の友であり、兄代わり」とかいう設定でごめんなさい。でも、コルトンつながりということで、ありえなくは……ないよね……!ということで、これからもふたりはその設定でお願いします。
 それから……どうしても恥ずかしくなって、本編からはぶいたのですが、クレイ×ヘルムートのエ…エロ話があります。冒頭の、みみずばれうんぬんらへんの詳しい話です。よろしかったらどうぞ。


2004年9月8日 保田ゆきの








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