海に抱かれておれは眠る
 あのひとが、ことのほかむつかしい顔をしていたり、妙なぐあいに黙っていたり、きびしい顔をしているときは、けっして怒っているのではなく、また真剣に悩むのでもなく、ただ腹がへっているだけなので心配ない。おれはあのひとのそういう顔を見ると、ああ、なにか作りましょうか、と声をかけたくなる。けれどあのひとの部下たちは、彼がそういう顔をしていると、おろおろして、不安がって、自分に落ち度があったのだろうか、とか、挽回するにはどうしたら、とかを考え出すからおかしい。そのひとは腹がへっているだけなのです。そういってあげたい。

 近海の哨戒が終わって船から下りてみると、そのひとがことのほかむつかしい顔をして、妙なぐあいに黙り、きびしい顔で、こちらに向かって歩いていた。おれは思わず笑いそうになる。実際にすこし笑った。あわてて表情をつくろって、そのひとに話しかける。
「どうなさいました、トロイ殿。船の点検ですか」
「ああ……」
 トロイ様はうわのそらで返事をした。点検というわけではなさそうだ。おれはそう思い、話題を変えた。
「トロイ殿、もう昼食はとられましたか」
「いや、まだだ」
「では、点検はわたしがやっておきます。トロイ殿は先に昼食をおとりください」
 おれはそういって、かるく頭を下げた。すると頭上から、違うのだヘルムート、と言う声が聞こえた。
「そろそろお前が帰ってくるころだろうと思って、見にきただけだ。船の点検は、責任者が他にいるからまかせればいい。……おまえは昼食をとったのか?」
「いえ。ずっと船におりましたから」
「では、いっしょにとろう。……それをいいに、きたのだ」
 そういってトロイ様が気まずそうに目を伏せるのを見ると、ああ、このひとはなぁ、と思う。ときどき、こちらが気恥ずかしくなって、もういやになってしまうようなことをする。さそうなら堂々とさそえばいいのだし、いっそ命令のようにしてもいいのに。このひとがこんなだから、おれは、胸がぐっとなって、顔が熱くなる。変なところが子どもみたいなんだ。こっちが照れる。
「はい、喜んでお受けします」
 おれはそういった。トロイ様は安心したように、ふ、と笑って見せた。ああ、だからもう、このひとは。おれはまた恥ずかしくなって、胸がつぶれそうになった。




 おれは普段、あまりトロイ様といっしょに居ないようにしている。ただでさえ自分の父親がトロイ様に仕えているのに、おれまでトロイ様と親しげにしていたら、まわりからなんと言われるか、分かったものではない。おれは、おれの出世や名声を、トロイ様のおかげだと言われるのがいやだ。父親のおかげだといわれるのもいやだ。おれは、父も、トロイ様も関係なく、自分だけの力でクールークを守り、海にこの身を捧げたい。それがおれの誇りだからだ。
 トロイ様もおれの気持ちを理解して、普段は、他の兵士と変わらぬように接してくれる。ただこうしてときどきは、昔のように、かげがえのない友として、また兄弟として、話す。それはおれにとって、なんとも嬉しいことであり、ふっと肩の力を抜くことができる、貴重な時間だった。きっとトロイ様もそうだと信じたい。

「最近がんばっているようだな」
 トロイ様は何気ない調子で言った。おれも、ここがおれたち以外に誰もいない、トロイ様の私室ということもあって、何気なく答える。
「いいえ、おれなんてまだまだです。トロイ様こそ、第一艦隊を任せられているじゃありませんか」
「あれはたまたま、順番が回ってきたようなものだ」
 そんなわけない。おれは苦笑する。でもトロイ様がそういうのなら、それでもいい、と思った。
「午後の予定は?」
 トロイ様が聞く。
「おれは、きのうの夜中から哨戒に出ていましたので、午後はしばらく休憩です。トロイ様は?」
「しばらく待機して、重役とやらの接待だ。まったく下らんが、ある意味放っては置けない相手だからな」
 その言葉から、その重役の正体は、ひとつしか思い浮かばなかった。
「クレイ商会……やはり、手を組むのですか」
「多分そうなるだろう。あの会長は、おれが思う以上に狡猾で賢い」
 トロイ様は忌々しそうにそういった。おれはあえて、そうやってピリピリしていても、何も変わりませんよ、といった。始まる前から考えすぎるのが、トロイ様のよくないクセだ。トロイ様は苦笑する。
「そうだな。……変わらず冷静だな、お前は。やはり煮詰まったときは、お前と話すのがいい」
 そういわれて、おれは腹の底がこそばゆくなる。ほめられるのは、単純に嬉しい。必要とされるのはこれ以上ない喜びだ。おれは顔が火照るのを感じながら、おれもトロイ様と話すのは好きです、と答えた。
 トロイ様は何も言わずに、やさしく笑った。その顔を見ていると、ますます気恥ずかしくなって、おれは思わず顔を伏せた。












 午後の休憩のあいだに、おれはたまっていた雑務をかたづけた。それも終わらせると、しばらく仮眠を取る。ほんのちょっと眠るつもりが、一度眠りに落ちると、その眠りは意外に重く、深かった。おれはずるずるとひきずられ、すっかり眠り込んでしまった。

 夢の中で、やさしい手がおれにふれた。その手はそっと髪をなでる。ひたいをさわり、ほおを包む。なんてやさしいんだろう。あたたかい。涙が出そうになる。
 まるで海のようだった。母なる、とは、よく言ったものだ。まったくその通りである。あたたかい、母のような海、それがぴったりだ。海に抱かれておれは眠っている。きもちいい。

 ふ、と目を開けた。いつのまに日が暮れたのか、部屋は真っ暗になっている。寝すぎてしまったようだ。おれはすこし憂鬱になった。
 ふと、脇腹の辺りに、なにかあたたかいものを感じた。ベッドの上に何かがいる。しかし暗くてよく見えない。無性に怖くって、けれど確かめたほうが安心できると思い、おれは、おそるおそるそれに触れてみた。
 人の頭だ、と思ったのと、それが動いたのは同時だった。
「――!」
 おれは反射的に手を引っ込める。そしてもっともっと目を凝らす。なんだ、と思う。
「……ト、トロイ様」
 トロイ様だった。笑いそうになる。何をやってるんだこの人は。おれなんかの部屋で、おれなんかのベッドに頭を預けて。意味がわからない。
「……ヘルムート」
 トロイ様はゆっくり顔を上げた。眠たそうな声である。完全に寝入っていたのだろう。おれはすこし、申し訳ないような気持ちになった。
「トロイ様、どうしてこんなところに?」
「………………?」
 寝ぼけているようだ。おれはもう、必死で堪えていたのだけれど、ついに堪えられなくなって、思い切り笑った。まったく解せない。これが、あの、偉大なる武人、トロイなのだろうか。おかしい。腹がよじれる。
「なにがおもしろいんだ」
「はは、は……、ああ、苦しい……」
 おれはベッドにあおむけに倒れこんで笑った。トロイ様はやっと目が覚めたのか、むっとしたようにおれの顔をのぞきこみ、おれの口を手で覆った。
「……ふん」
 この人は自分が何歳だと思っているんだろう。まるで子どものように。ああおかしい。おれは必死で笑いをかみ殺しながら、トロイ様を見た。トロイ様はおれの口から手をはなし、おれの頬をさわり、髪を梳いた。ああ、と思った。
「やっぱり、あの手は、トロイ様だったんですね」
「あの手?」
「ええ。昔の夢を見ていました」
 トロイ様は分かったのか分からないのか、黙っておれの髪を梳いた。そして、口を開く。
「下らぬ会議だった。本当に、何の意味もない……」
「……」
「おれなど、はじめからいなければよかったのだ。これほど、自分の無力を味わうくらいなら……な」
 やはり、クレイ商会と手を組むことになったのだろう。おれは、トロイ様の苦しみが切なくて、トロイ様の頬に手を伸ばした。トロイ様がおれにするように、おれも、トロイ様の頬を包み、髪を梳いた。トロイ様はそっと目を細める。おれの髪を梳きながら、おれの体に自分の体を重ねて、ベッドに寝転んだ。
「……なぜここに来ようと思ったのかは、分からぬ。きっと、お前と話をしたかったんだろう。だが、お前は眠っていて、それを見ていると、なんとなく帰る気もなくなってしまったのだ。……お前には分からないだろうな?」
 トロイ様の声が、耳のすぐそばで聞こえる。ああ、また眠れそうだ、と思う。
「いいえ。よく分かります。おれにも、そういうときが、ありますから」
 おれは正直にそういった。トロイ様は、そうか、と静かに言って、おれのとなりに体を移し、おれの髪に触れたまま、目をとじた。おれはトロイ様がおだやかに眠りに落ちるのを、暗闇に目を凝らしながらじっと見る。そうしているうちに、おれもなんだか眠くなってきて、トロイ様の息遣いを聞きながら、そっと目をとじた。



おたがいに、おたがいをよく分かっていて、そして唯一心を許せる相手……というのが理想です。いいなあ、このふたり……!
この二人はなんとなく、発展(…)するのが遅そうですね。前にも書きましたが、相手に触ってるだけで安心して満足してそうです。


2004年9月13日 保田ゆきの








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