病は気から実験


 どこかの島に船を入港させるときほど、いそがしい日はない。
 船の主は島を探索するたび怪我をして帰ってくるし、航海が終わって気がゆるむのか熱を出す者もいるし、島の住人たちはよい機会だとばかりに診察を受けに来るし。
 今もてんやわんやで診察を続けている。キャリー君はいつもどおり患者に笑顔をふりまいているが、もうそろそろ休憩させないとその顔が引きつってしまいそうだ。私もカルテを追う目がきつい。
 しかし患者は中々途切れなかった。きっと今日の夜、船がこの島を出港するからだろう。来ている患者のほとんどは島の住民だった。
 そうやって必死で患者をさばいていくうちに、午前の診察がどうにか終わった。
「先に休憩してくれ」
 キャリー君にそう声をかけて、いすに座ったまま伸びをする。ではお先に、とキャリー君は医務室から退出した。と、思ったらすぐに引き返してきた。
「……どうした?」
「あの、先生、トリスタンさんが外にいるんですけれど……」
「……ああ」
 トリスタンさんというのは小麦粉が大好きな青年のことである。小麦粉があまりに大好きなので、それを飲むと病気もたちまち治ってしまうらしい。すばらしいことだ。今日も小麦粉をもらうために、医務室の外で患者が途切れるのを待っていたようだ。
「じゃあ……彼に入ってもらって。そして君は休憩をとりなさい」
 疲れた心持ちでそう言った。
「はい」
 キャリー君は律儀に返事をして、今度こそ部屋を退出した。少しの間を空けて、トリスタンさんが代わりに入ってくる。こんにちは、と声をかけると、
「ゴホッ…こんにちは、先生……」
と、返ってきた。
 どうぞ、と目の前の椅子をすすめて机の引き出しを開ける。ここには彼専用の薬(という名の小麦粉)が入れてあった。
「……先生、今日は、ずいぶん忙しそうでしたね……」
「ええ。船が今日の夜出てしまうので、島の方々が急いで診察にいらっしゃったんですよ」
「そうですか……、ゴホッ」
 薬の包みをいくつか処方袋にいれ、トリスタンさんに渡した。トリスタンさんは、ありがとうございます、と丁寧な手つきでそれを受け取り、大切そうにひざの上に置いた。
 いつものことだが、罪悪感と、悪戯心と、少々の呆れがないまぜになったような、不思議な気持ちになる。気を紛らわすために机の上にあるカルテを整理していると、トリスタンさんが遠慮がちに口を開いた。
「あの、先生……。俺の病気は、どうすれば完治するんでしょうか」
「完治ですか?」
 思わずすっとんきょうな声がでた。なんとも難しい質問だった。体は間違いなく健康なのだから、問題があるとすればその思い込みの激しい性格である。そしてそれは医者の仕事ではない。
「完治ね……」
 とはいっても、その思い込みのせいで咳が出たりやつれたりしているのだから、病気といえば病気なのか。思わず顔を険しくして考え込むと、トリスタンさんの顔は見る見る曇っていった。
「ゴホッ……、先生……、俺はもう長くないんですね……」
 そこまでいってしまうか。彼の飛躍のすばらしさに椅子からすべり落ちそうになる。
「そんなことは一言も言ってませんよ。私はただ、完治させる方法を考えていただけで、」
「でも……ずいぶん険しい表情でしたし……」
「だからといって、もう長くないなんてことはありません。安心してください」
 言葉を畳み掛けると、トリスタンさんはようやく安心したような顔つきで、少しだけ笑った。その顔を見ていると、先ほどの罪悪感と、呆れと、同時に苛立ちのようなものを感じた。彼は健康なのだし、小麦粉を飲んだって体の何かが変化することはない。それなのにトリスタンさんは薬と私を全面的に信頼し、自分の体を悲観している。
 このままではいけないのだな、と、思った。
「トリスタンさん。こんな言葉をご存知ですか」
「な、なんでしょう…ゴホッ」
「病は気から、です」
 とてもとても強い語気で、言った。病は気から……とトリスタンさんが聞き返したので、さらに大きな声で、病は気から、です、と言った。
「つまり、病気というのは体が弱っているときになりますが、同時に、心も深く関係しているということです。気の持ちようだけで、病気になったり、逆にそれが治ったりすることだってあるんです」
 これはあんたのことだぞ、という思いを込めてゆっくり丁寧に言うと、トリスタンさんは真剣な表情で頷いていた。やっぱりこの人は病気を治したいのだ。少しだけ胸が痛む。
「先生……では、どうすればよいのでしょうか、」
「えっ」
 どうすればいいのか。そこまで考えていなかった。
 つまりあなたの病気は勝手な思い込みで、飲んでいる薬は小麦粉で、それを自覚すれば病気なんで気のせいだと分かるでしょう。
 なんて、言えるはずなかった。
 それを言うには、もう、彼も私も随分の時間を無駄に過ごしすぎていたのだ。
「……私が今までに聞いた話では、」
「はい」
 トリスタンさんの真剣なまなざしが痛かった。内心どぎまぎしながら、平静を装って続ける。
「毎日大笑いをして過ごしていると病が軽くなった、とか、日の出に感動して涙をながしていると、ふっと身体が楽になったとか……」
 我ながら苦しいなと思った。伝えたいのはそういうことではなくて、彼が自然と自分の病気の正体を自覚していけるような、そういったことなのに。
 しかしトリスタンさんはすっくと立ち上がり、
「ためになるお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」
と妙にはっきりと言い放ち、にこりと笑って医務室から出て行ってしまった。
「……げっ…」
 まさか今の話を鵜呑みにしたのだろうか。今の話は、いわば前置き、たとえ話であって、彼が知るべきは他にあったのに。
 もし医務室の外から調子っぱずれの笑い声が聞こえてきたら、どうしよう。
「参りましたね……」
 まあさすがの彼もそこまでしないだろうと、自分に言い聞かせ、とりあえず午後の診察の準備に取り掛かることにした。




 船は予定通り、夜に出港した。
 昼間の忙しさが嘘のように、とてもゆったりとした時間が流れている。医務室には消毒用の熱湯を沸かすための設備がある。それを利用して湯を沸かし、コーヒーをいれて一息つく。
 とりあえずトリスタンさんの笑い声が聞こえてくるような事態にはならなかった。彼は今どうしているのだろう。きっと無理やりひねり出した私の言葉など、たいした重みはなかったのだ。コーヒーの温かさと一緒に、ぬるい安心が私を包み、ふう、と息を吐く。


 しかしなぜか、夜中に目覚めてしまった。
 よく分からない居心地の悪さ。妙に不安で、落ち着かなかった。眠りなおそうとしても寝付けない。しかたなくベッドから這い出ると、ひどく肌寒くてくしゃみが出た。
 海上の夜と明け方は寒い。今日はそれが一段とひどいようだ。風邪を引く人がいるかもしれないな、と医者の頭で考えた。
 ……目覚めてからずっと、本当に、本当に脈絡も根拠もない不安が、私の頭を占めていた。
 その不安につき動かされて医務室を出る。音を立てないよう、静かに階段を上り、甲板にでた。

 甲板はひどく寒かった。海は暗く、空には星が見えていた。しかし真夜中の暗さに比べると少し明るく感じられるので、きっとじきに空が白みはじめるだろう。
 そして私の不安の大元が、予想通り甲板の先端に座り込んでいた。ああ、ほんとう、馬鹿な人だな。慌てて医務室に引き返し、適当な上着をもってもう一度甲板へ出る。先端に向かって静かに歩いていく。
「……そんな格好では、風邪引きますよ」
「先生」
 トリスタンさんは、心の底から驚いた、という顔で振りかえった。思わず苦笑する。肩を冷やすのは良くありません、と言って上着を差し出した。
「ありがとうございます…」
 トリスタンさんは鼻にかかった声で言った。本当に風邪を引き始めてるんじゃ、と思ったが、彼は必要以上に健康なので寝れば治るだろう。
 私の上着を肩にかけて羽織り、トリスタンさんの目は再び海上へ移った。何となく予想がついていたので、聞いてみる。
「日の出を見るつもりなんですか」
「……はい……ゴホッ」
 やっぱりなあ、と思いながら隣に座り込む。律儀で生真面目で馬鹿な人なんだなあ。不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「……笑おうと思ったんですが…、ちょっと無理があったので、」
 この人、笑おうとも思っていたのか。なんだかおかしくて、トリスタンさんに見えないように苦笑する。
 そして私も海に目線をやりながら、
「水平線に昇る朝日は、きれいでしょうね」
といった。トリスタンさんも静かな声で、はい、と答えた。それ以降は特に言葉も交わさず、ときどき出てくるトリスタンさんの咳を聞きながら、時間が過ぎていった。

 空が少しずつ明るくなってきた。
 水平線の一部分が特に明るい。
 穏やかな波に揺られながら、その一点をじいっと見つめる。空があかるい。海面が輝く。
 光の塊が、水平線から少しずつ顔を出していく。
 まぶしくて目が勝手に閉じようとする。肌寒いのに、なぜか、ぽかぽかと暖められる心地がする。
 朝日がいま、目の前で昇る。
 それは毎日私が眠っている間に、休まず、絶えず繰り返されてきた営みだった。生命の源が惜しげもなくその姿を私達に晒し、あたたかく、おおきく、私達をあたためている。

 気がつけばぽかんと見入っていた。
 隣にいるトリスタンさんが、しずかに、
「あたたかい……、とても、楽な心地です、先生」
と言った。
「咳も止まりましたよ。太陽というのは、すごいですね……」
 ひざを抱えて、昇る朝日を見つめてそんなことを言う。思わず私の上着を羽織っているその背中に手を伸ばし、「病気が治るといいですね」と言っていた。
 トリスタンさんは、今にも眠ってしまいそうな顔つきで、
「はい、いいですね……」
と言った。


 そのあとは二人で医務室にもどり、湯を沸かしてホットココアをいれた。そのころにはトリスタンさんの咳は、思い出したようにゴホゴホと出始めていたが、なんとなく満たされた気持ちだった。
「結局治りませんでした」
 思いの他がっかりしているトリスタンさんに、言葉をかける。
「でも、今日のトリスタンさんは、とても顔色がいいですよ。後は、このココアを飲んだらそこのベッドで寝ることですね」
 あなたずっと起きてたんでしょう。そういうと、トリスタンさんはココアを冷ましながら、
「先生はなんでも分かっているんですね……」
と、小さく笑った。


END

2005/11/13 保田ゆきの






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送