天気を聞くような気軽さで



 おれは、腹を底から焦がし、のどを焼くような、この激しい怒りをどうしていいのかわからずに、ただ歯を食いしばり、部屋の中をうろうろと歩き回った。
 見かねたパーシヴァルが、「おまえ、もう、眠ったほうがいいんじゃないか?」と言っても、まるっきり無視して、おれはあちこちをのたうちまわる。
 パーシヴァルは渋い顔をして、口を開いた。
「いいかげんにしろ、ボルス。クリスさまがあの男とともに発たれることは、みなで納得したはずじゃないか。いまさら文句をつけたって遅いんだぞ」
「わかっている!」
 おれは反射的に大きな声を上げた。まるでパーシヴァルにかみつくような調子になってしまった。それにしたって、あの男のナンパなことといったらない。クリスさまに手を出すことはないにしても、旅の道中、本当にクリスさまの安全を守ってくれるのか。
 おれはいまごろ、どこかで夜を明かす準備をしているクリスさまを想った。とたんに胸がひどく痛み、あまりの心細さに、大声でさけびたいような気持ちになった。
 ふいに、なにか大きなものがおれの額をおおう。ふとわれにかえると、それは、パーシヴァルの手のひらだった。
「な、なんだ?」
 おもわず、すっとんきょうな声が出る。
「いいから落ち着け。まったく」
 パーシヴァルはそういって、おれの前髪をかきあげた。まるで母親がこどもをなだめるような手つきで、おれは気恥ずかしくて目をそらした。
 パーシヴァルの手は心地よく、おれはついうっとりと目を細める。だがあわてて首をふり、ぎろりと目を見開いて、パーシヴァルをにらんだ。
「パーシヴァル、おまえは平気なのか?」
 クリスさまが、どこのだれかもよく分からないナンパ男と、たった二人で旅に出る!おれにとったら、コレクションしているワインのビンがすべて割れてしまう以上に、つらく、耐え難いことだった。
 しかしパーシヴァルは平然とした顔で言う。
「平気とか、平気じゃないとか、そもそもそんな話ではないだろう。クリスさまが自分で決めたことに、おれたちは口出しするべきではない」
「それは、そうだが……」
 言葉はきれいにながれてゆくが、おれの心はそう簡単にわりきれない。パーシヴァルは大きくため息をついてこういった。
「どうやら、ボルス殿はお休みになる時間のようだ。さっさとベッドに行って、布団をかぶり、目をつぶることですね」
 そしておれの肩をおして、なかばむりやりベッドへと押し込んだ。
「いい、おれはまだ、眠くない」
 おれが体をよじると、
「考えたってしかたないことで悩んでしまうときは、なにより、寝るのが一番だ。さあ、寝た、寝た!」
と、パーシヴァルはおれの言葉に一切耳を貸さずにそう言うのだった。
 おれは仕方なしに布団をかぶり、恨みがましくパーシヴァルを見た。さては、おれが寝たあと、夜の街に繰り出すつもりなんじゃ、と邪推してみたりもする。
 しかしおれと目が合ったパーシヴァルは、こちらの毒気がぬけるような、優しい笑みをうかべていた。
「明かりをおとしてやろう。ほんとうに、はやく眠ってしまえよ。明日には心が、ずいぶん楽になるから」
 静かな、闇に溶ける声で、そういうのだった。
 おれはパーシヴァルに言おうとしていた、恨み言や、不平不満、すべて頭からぬけてしまい、まぬけな顔で、
「おやすみ」
と、言っていた。
 パーシヴァルは目を細めて、おやすみ、とつぶやいた。
 ランプの火が消え、部屋は真っ暗になり、何も見えなくなった。



 暗闇の中、パーシヴァル、と名を呼んだ。
 なんども、呼んだ。
 衣擦れの音がして、闇が動き、つづいて、
「どうした、」
と眠そうな声が聞こえた。
 おれはそちらに向かって言った。
「眠れないんだ」
 闇は動かない。おれはもういちど、ふり絞るように言う。
「眠れないんだよ……」
 言いながら、自分があんまりに惨めで、悲しくなってきた。眠ろうとすると、これまでのいろいろな出来事が、休みなく次々とうかんできて、途方もない怒りに胸がしめつけられる。おかげで少しも心が休まらず、眠気もおとずれない。
 おれはもういちど、パーシヴァル、と呼んだ。すると返事の代わりに、あたたかい手がのびてきた。
「眠れないか」
 おれを非難するのではなく、また、迷惑がる様子もいっさい見せないで、パーシヴァルはやさしくそう言っておれの頭を撫でた。
「眠り方がわからなくなってしまった」
「そうか」
「もうにどと眠れないのかも」
「まあ、それは、だいじょうぶさ」
 パーシヴァルの声はのんびりしている。寝ぼけているわけでもないらしい。おれは、どうしようもなく甘えたいような気持ちになって、パーシヴァルの手をつかみ、腕をたどり、体に抱きついた。それでもパーシヴァルは動じずに、おれの背中をぽんぽんとたたいてくれた。
「起こしてごめんな」
 おれはパーシヴァルの体につっぷしてそう言った。パーシヴァルはやはりのんびりした声で、いいや、と言った。
「だれだって、眠れない夜はあるさ。それにしたって、ボルス、おまえはときどき、こうして子どものようになってしまうなあ」
 そういって、息だけで笑うのだった。
 そのまましばらくじっとしていた。やがておれを支えるパーシヴァルが、こくり、こくりと船を漕ぎ出した。おれは自分の布団にパーシヴァルを押し込んだ。パーシヴァルはううん、とうなって、
「ボルス、いるのか?どこだ……」
と、よく分からない、寝言のようなことを呟いた。
 おれはパーシヴァルの横に寝そべり、胸につっぷして、目を閉じた。パーシヴァルの手が、手探りでのびてきて、おれの背を叩いた。
 眠っているときでさえおれをあやそうとする手。
 おれはひっそりと笑った。それから、しばらく、パーシヴァルの静かな寝息を聞いていた。



 いつのまにか眠っていた。
 おれが目を覚ますと、すでにパーシヴァルは起きだしていて、布団の中にいなかった。おれはうんとのびをする。一緒に大きなあくびがでた。
 部屋の扉が開いて、顔を洗ってきたらしいパーシヴァルが、静かに入ってきた。
「おや、もう起きたのか。もっと寝ていてもよかったのに」
 パーシヴァルは穏やかな声でそう言った。おれは、ふん、と鼻で笑った。内心は、照れ臭くってどうしようもなかったのだが。
 自分も顔を洗いにいこうとベッドから這い出ると、パーシヴァルが何てことない調子で聞いた。
「どうだ、気分は」
 まるで天気を聞くような気軽さだった。おれは、その声につられて軽くほほ笑み、言った。
「なかなか、すっきりしている。やっぱり眠ることは大切なんだな」
 本心だった。昨日の苦悩がうそのように、おれの頭は冴え、胸の痛みはやわらいでいた。
 それを聞いたパーシヴァルは歯を見せて笑った。
「それはなにより」
 そう言って、ほんの少しおどけながら、安心したような表情で笑うものだから、おれは嬉しいやら、恥ずかしいやら、よく分からないきもちで、とにかく笑い返しておいた。胸のつかえがきれいさっぱり、なくなるようだった。


おしまい

2009年12月8日 保田ゆきの






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