隻眼の色は 私は今でも緊張してしまう。最初はあの隻眼を、等しく人を見下している目だと感じていた。だから彼女に見つめられると、なんともいえない不快感が湧いて、私は、冷静な表情を保つのに努めなくてはいけなかった。 やがて、彼女の目は決して何者も見下していないことに気づき、私は、胸をなでおろすどころか、ますます彼女が恐ろしくなった。こわい。あの目がこわい。あの目は人を見定める目だ。ただまっすぐに、目の前のものをそのものだと受け止める目だ。私はあの目に見つめられて、そして、「ああ、あなたって、そんなものなのね」と審判を下されるのが怖かった。 別にあの女の審判など、どうということはない。何度も自分に言い聞かせた。なのに、いざあの目に射すくめられると、無性に切なく、苦しくなって、違うのです、私は本当は、もっと、もっと、と、縋りついて弁明したくなる。 ようやく執務に区切りをつけ、訓練室で弓の鍛錬をしていたとき、不意に後ろから声をかけられた。声をかけられる前から、ああ、来たな、と気づいていたのに、いざ声をかけられると、胸が弾み、矢を取りこぼしそうになった。 「ロザ。ずいぶん熱心なのね」 イゴリダはゆったりとほほ笑んでそう言った。その声は相変わらず冷徹だった。 「ええ。毎日きっちりと鍛錬しておかないと、かえって気持ちが悪いのです」 私も努めて冷静に言った。同時に矢を放つ。矢は吸い込まれるように、的を射た。たいしたものね、とつぶやくイゴリダの声に、私は少なからず舞い上がった。再び弓を構えようとすると、イゴリダは、気まぐれな声音で言った。 「ねえ、ロザ。訓練室から出ない?気晴らしに、散歩でもしましょう」 私は面くらい、ともかく弓を下ろした。 「散歩…?しかし私はまだ鍛錬の途中です」 「だから、散歩しながら鍛錬しましょう。あなたの弓なら、遠くの木の実や、動物も射抜けるわよね」 「……お腹が減っているのですか?」 「違うわよ。気晴らしがしたいの」 イゴリダはおかしそうに笑った。そして私の返事を聞かず、さっさと訓練室から出て行ってしまう。私は迷った。彼女を放っておいて、鍛錬を続けたかった。彼女の気まぐれに付き合わされて、うんざりしたことはあっても、感謝したことは一度もない。そこまではっきり分かっているのに、私は弓を携えて訓練室を出た。ああもう、と、ため息を一つ吐いて、するとなぜだか、少しときめくような気持ちになった。遠くに見えるイゴリダの背中を追い、一緒にエレベーターに乗り込む時には、私の心は軽やかで、さっきまでの鬱々とした気分が嘘のようだった。 下区のランカー居住区までやってきたのは久しぶりだった。執務室に籠もりきりでは、市井の人々の生活が見えない。改めてそれに気づかされ、背筋の伸びる思いだった。まさかイゴリダは、私にそれを気づかせるために、わざわざこんなところまで連れ出したのだろうか。そう思うと急に彼女が眩しく思える。 しかしイゴリダは、私の顔を呆れるように見て、 「なにぼうっとしてるの。はやく森へ行きましょう」 と言った。 緑を眺めながらしばらく歩いて、とつぜんイゴリダは立ち止まった。 「ね、あの実、おいしそうね。あなたの弓で射ることは出来る?」 「……やはりお腹がすいているのですね」 「違うのよ。ちょっとした興味。物語であるじゃない。弓の名手が、果物をスパーンと射抜く痛快な場面」 「あれは、人の頭の上に果実を置くのです」 「いいのよ、細かいことは。ほら、はやくやってみて」 なにをわくわくとしているのか。私には正直、彼女が何を期待しているのか分からない。だが、ここで辞退すると、間違いなく、やっぱりロザでも出来ないのねえ、ふうん、と、馬鹿にされるのだろう。私は鼻で笑ったあと、なにも言わずに弓を構え、リラックスして矢を放つ。矢は当然のように果物を射止め、果物は地面に落ちた。 「きゃあ、すてき」 本当にそう思っているのか、疑わしいものだ。だが私は嫌な気はしなかった。イゴリダは果物を拾いながら、にっこり笑った。 「ねえ、じゃあ、次は、あの遠くにある木の実、落とせるかしら?」 「やってみせましょう」 私はイゴリダの示した方向を見据えた。遠く、小さい的だ。だが十分狙える。先ほどよりも集中して、私は弓を構えて狙いを定めた。そして、ふと、不穏な予感がした。予感というより、直感か。目を細め、耳を澄ます。 「どうしたの?ロザ」 「シッ……。あの枝の奥……」 私は、木の実が生い茂る枝の、さらに奥を見つめた。幹とは違う異質の茶色、不快な羽音。 「あそこ、蜂の巣がありますね」 「ええ、そうなのよ」 私の言葉を受けて、イゴリダは何てことなさそうにそう言った。それは開き直りに近い調子だった。 「そうなのよ、って……」 私は唖然と彼女の顔を見つめた。イゴリダは肩をすくめる。 「あーあ、まあ、気づくか。あなたなら気づかずスパーンと射抜くかなあと思ったのにな。誤算だわ」 「イゴリダ……?」 「怒らないで。だって、あのままにしてたら、危ないじゃない?」 少しも悪びれず、彼女はけろりと言い放つ。この、腹の底を焦がす、じりじりとした怒りをどこにぶつければいいのだろう。私は押し黙ってイゴリダを睨んだ。別にこれしきのこと、恨むわけではない、もっと散々な目に合わされてきたのだから。この怒りは、むしろ私自身に向いているのだった。なにを期待していたの、ロザ。イゴリダを純粋に喜ばせる気でいたなんて、いつからそんなに甘くなったの。情けない。恥ずかしい。 「最初から、蜂の巣を駆除して欲しいと頼めばよいのです」 私はそう言って、先ほどまでの訓練用の矢ではなく、いつも実践で使う矢を取り出した。怒りをぶつけるわけではないが、多少の苛立ちをこめて、蜂の巣を射抜く。巣は粉々になり、燃え落ちた。蜂の子一匹すら残らなかった。 「あーあ、全部殺しちゃった」 「あなたがそうさせたのでしょう」 「違うわ、ロザ、あなたがやったのよ」 この、ふてぶてしい女め! 私は歯を食い縛り、ありったけの嫌悪をこめて、イゴリダをにらみつけた。そして、あの隻眼と目が合った。まっすぐに私を見据えるひとつの目。さっきまでの悪戯っぽい色は消えていた。まるで吸い込まれそうな深い色。 やめて、見ないで、そんな風に私を量らないで! やはり恐ろしくなり、私は思わず目を伏せる。しばらくそうしていると、イゴリダの小さな笑い声が聞こえてきた。 「ふふ……あなたって本当に、おもしろい。いじめがいがあるわ」 そういいながら、私の肩に手を置いて、髪に差し入れた指先で、うなじをそっと撫でた。私は反射的に声を上げて体をよじる。 「やめなさい!」 声を荒げて手を振り払うと、イゴリダはますます嬉しそうに笑った。 「ああ、おかしい!ロザ、あなた、顔が真っ赤よ!」 そういいながら、きびすを返して走り去った。 「待ちなさい!そもそも、私はまだ、謝罪の言葉を聞いていません!」 私はその背中を追いかける。まったく下らない、またイゴリダに振り回された。それでもやはり、さっきまでの気分が嘘のように、私の心は軽やかで、晴れ晴れとしていたのだった。 おしまい 2010年9月26日 保田のら |
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