くすぶる狂気



「ああ!すべてこの世に存在するものは、なんともつまらなく、とるにたらないことばかり!どれもこれもまっすぐに過ぎて、非常に、どうでもいい。形を変えて、色を塗って、ようやく、まだ、どうにか見られるようになるのです。つまり、何事にも、力を加えることが必要であり、歪めば歪むほどおもしろい。そうです。これが愉しく生きるということなのですよ」
 ユーリの演説はおれの耳にむなしく響いた、はずなのだが、それでもこの圧倒的な存在は、おれを真正面から呑み込もうとして、不覚にも感動しそうになっている自分に気づき、おれは戸惑った。
 ユーリは泰然と微笑み、おれに一歩、一歩近づいた。
「さあ、ファズ。あなたの力を見せてください。いいえ、見せるべきです。力を示すのは今しかない。そう、機を逃すと言うことは、戦士にとって恥、これ以上ない恥、なのです。さあ、ゆくのですよ、ファズ。あなたはもう、心の底では、なにをなすべきか分かっているはず!」
 ゆきなさい!
 ユーリの声と同時に、おれの体は動いていた。知らぬ間に上げていた叫びは、けものじみていて、自分の声ではないようだった。おれから逃げるのは、もはや人ではなく獲物であり、おれを支配するのは哀れみではなく苛立ちだった。
 逃げるな、おとなしく、おれに、殺されるがいい!
 剣を振り上げ、力任せに叩き斬った。
 振りおろした剣に、鈍い衝撃が伝わり、断末魔、吹き出す血の色、におい、すべて、すべてが急に現実味を帯びておれの目の前にあふれだした。血の気が引く。手足が凍る。目の前の光景が遠ざかり暗転する。
 おれの頭は考えることをやめた。遠くから悲鳴が聞こえた。それが自分の声だと気づくときには、おれは地に伏せ頭をかきむしり、狂う寸前でなんとか踏みとどまろうと、必死だった。
「ひひっ!」
 痙攣じみた引きつり笑いが聞こえた。それとともに、闇が、おれを覆い尽くした。




「ファズ」
 だれかがおれの名を呼んでいる。おれの肩に触れ、髪に触れ、おれを闇からすくい上げようとしている。
「ファズ、だいじょうぶか?」
 闇に光が射す、おれは薄く目を開けた。目の前に、心配そうにおれの顔をのぞきこむジグの顔があった。おれと目が合うと、ジグは険しい顔をゆるめ、
「よかった、目が覚めたか」
と、小さな声で言った。おれは重い体をゆっくり起こす。汗で髪が首筋にはりついていた。
「ずいぶんうなされていたな。嫌な夢を見ていたのか?」
「ああ……そうだな……」
 おれはジグの言葉を聞きながら、ああ今のは夢だ、夢だったんだ…と、自分を落ち着かせようとした。そうやって気を逸らさないと、あの、鈍い感触が、色が、においが、ふと頭の中によみがえり、衝動的に叫びそうになる。
「……ファズ、もういちど眠るか?」
 ジグはおれを気遣うように言った。よほど、ひどい顔をしているんだろう。おれはどうにかして、心配するなよ、と言いたかったが、とても言えそうになかった、ただ、あいまいな顔をして、何度かうなづく。
 ジグはしばらくおれの顔を見ていたが、不意に、手を伸ばし、おれの肩をぽん、と叩いた。それから小さく、おやすみ、と言って、自分のベッドに戻っていった。
 ジグはやさしい、昔から、一貫してやさしい。どんな言葉も邪魔にしかならないときがある、そんな時、ジグは、無闇に相手をつついたりしない。少し離れたところに立ち、そっと見守ってくれる。やがて気をとりなおし、なあ、とこちらから声をあげると、なんだ、と、すぐに気がついて駆け寄ってくれるのだ。
 ふと、ジグを見た。
 ジグはこちらに背を向けるようにして、ベッドに寝転んでいる。おれがもし、今、ジグ、と呼びかけたら、すぐにこちらを向いて、何てことない顔をして、普段通りの声で、どうした、ファズ、と言葉を返してくれるだろう。
 おれはベッドに寝ころんだ。頭まで布団をかぶり、決して、声などかけるものか、と己を戒めた。
 目を閉じる。ユーリの声が暗闇の中で反響する。
 どれもこれもまっすぐに過ぎて、非常に、どうでもいい。形を変えて、色を塗って、ようやく、まだ、どうにか見られるようになるのです……。
 ジグはまっすぐだ、ああ、あいつを、力で押し曲げて、塗りつぶしたら、どうなるのだろう、どんな風に、おれを見つめるのだろう。あのまっすぐな瞳がゆらぎ、暗い光を灯す、その刹那を見てみたい…。不意に沸き起こる衝動に、おれは、ぶるりと震えた。まさか、そんなこと、するはずがない。おれは克服したのだ。狂気に勝った。それなのに、それなのに!
 夜の暗闇はどこまでも暗闇で、おれは必死に、夢の終わりに差し伸べられた光をイメージしながら、目を固くつむり、くすぶる狂気を抑えていた。歪み、歪められる恐怖と、快楽を、腹の底で押し殺した。

おしまい

2010年10月17日 保田のら






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