血をこさぐ



 寮のラウンジでのんびりゲームをしていたとき、とつぜん鼻水が出てきた。とっさに手の甲でぬぐうとそれは真っ赤だった。
「あ、」
 慌てて上を向いて鼻をおさえ、となりにいた真田さんに声をかける。
「すんません、ティッシュとか持ってないっすか」
「ティッシュ?」
 真田さんは手入れしていたグローブを置いておれを見た。そしてすぐに「鼻血か?」と聞き返し、カウンターの上にあったティッシュ箱を持ってきてくれた。
「すんません」
 おれはありがたく頂戴する。ティッシュを数枚とって鼻にあてがった。真田さんはおれの目をじっと見ながら、
「上を向くなよ。血を飲んだら気分が悪くなるぞ」
といった。この人は、人の鼻血に対しても真剣である。どこまでも人生を真剣に生きている人なのだった。おれはそのまっすぐさに恥ずかしくなりながら、「ハイ」と返事をした。
 それにしても鼻血を出すのなんて久しぶりだ。おれはすっかり小学生気分になった。
「鼻血、よく出るのか?」
「えっ。いやあ、全然でないっスよ、おれ。子どものときでもあんまり出した覚えないし。だから今出たのもなんでかなーって、自分でも不思議ッス」
「のぼせたのかもな」
 真田さんはおれの隣に座りなおし、テーブルに置いた自分のグローブを持ち上げた。手入れの続きを始めたようだった。
「おれはよく出る方なんだ」
「鼻血がっすか」
「ああ」
 意外な事実。おれは真っ赤になったティッシュを捨てて新しいのを数枚とり、あらためて真田さんを見た。
「特に子どものころはひどかった。ちょっとこけただけでも出るし、夏場は暑いだけでも出してたな……よく妹に笑われた」
「へえー。体質なんですかね」
「だろうな。自分でも分かってるのに、ティッシュを持ち歩かなかったから、代わりにシンジがいつも持っててくれたよ」
 ポケットティッシュを持ち歩く少年・荒垣さん。あの人が意外と几帳面だったり、まめだったり、料理が上手だったりしたのは、きっと真田さんが側にいたからだろうと今さらになって思う。それを確かめる術はもうないが。
 そろそろ止まったかと思ってティッシュを鼻からはなす。血はほとんどついていなかった。どうやら止まってくれたらしい。
「固まった血がついてる」
 とうとつに真田さんはそういって、何のためらいもなくおれの鼻の下につめを立てた。数回つめの先でこすったあと「取れんな」といって指をはなした。その一連の動きにおれは呆気にとられる。こんなこと他の誰かにされたら、おいおいこいつ何やってんだ、と引いてしまうところだが、真田さんがすると妙にしっくりきて、それが逆に怖かった。
「水で洗って落とすんだな。せっかくの顔が台無しだ」
 そういってにこっと笑うと、真田さんはまたグローブの手入れを始めた。
 人にはそれぞれ心があり、それに基づいて行動する、しかし行動から心を読み取るのは難しいっておれは身をもって知っていたが、まさにその教科書のような人間が目の前にいた。
 おれは洗面所に行って乾いた血を洗い落とした。するとそこだけ真っ赤になっていた。あの人どれだけ強い力でひっかいたんだ、とおれは苦笑する。おっかしいなあ、おもしろいなあ、まったく。にやにや笑いながらラウンジに戻ると、
「なんだ、いいことでもあったのか?」
とまっすぐに問いかけられた。おれはこの人のおでこにキスでもしてやりたい気分だったが、それは気分だけにしておいて、別になんでもないっす、と答えた。
「よく分からんな」
 真田さんは首をかしげてグローブに目を戻す。分からないのはお互いさまだ。おれは真田さんのとなりに座りなおして、ゲームのスイッチを入れた。


おしまい

2006年8月15日 保田ゆきの






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