手は手に手を手へ


 きっかけは、なんてことない、おれ以外からすれば気にも留めないような、ほんとうに小さなことだった。それなのにおれというやつは、ただそれだけでたくさんの欲がむくむくと湧いてきて、自分ではどうにも抑えきれなくなって、悲しいやら怖いやら憎いやら、ともかく最大の自己嫌悪を自分に向けつつも、結局手を止められなかった。

 手、だった。
 たったそれだけのことだ。ある夜、真田さんが寮に帰ってきて、おれが座っていたソファの斜め前にすわったとたんに「暑い」と不満を言った。
「まあ、まだ9月っスから。それに、先輩みたいに体を動かしっぱなしじゃ、暑いのも当然スよ」
「それもそうだな」
 真田さんは息を吐きながら、ぐったりとソファにもたれかかり、いつもしている革の黒手袋をはずそうとした。しかし汗でべたついているのかなかなか外れない。真田さんは少し苛立った様子で、指の先を噛み、ぐいとひっぱった。手袋はようやく外れて、するりとした素手が露わになる。
 おれはその、真田さんのなにもつけていない手に、なぜだか心を持っていかれたのだった。れっきとした男の手、おれなんかよりもよっぽどしっかりした手なのに。
「ああ、さっぱりした」
 真田さんはおれの視線に気づきもせず、べたついた手を服でぬぐって、ゆっくりマッサージしている。真田さんの白い指は、やさしく丸まり、しなやかに伸び、艶っぽく反った。一本一本、丁寧にそれを繰り返していく。指先まで終わると、今度は指の間を、もう一方の手の親指で幾度かずつ押していく。その動きが妙にいやらしくて、おれは居たたまれない気持ちになる。馬鹿だ、おれは馬鹿です、たかが男の手に何を興奮しているんだか。それでもおれは、その衝動をとめることが出来なかった。気づけば真田さんの手を握っていた。
「どうした?」
 真田さんは不思議そうにおれを見る。ああ、おれなんて、いますぐ消えっちまえ、馬鹿。
「いや、あはは……、さ、真田さんの手って、きれースね!」
「……?そうか?確かに怪我には気を使っているが、特別きれいでもないだろう」
「そっすかね?おれは、きれいだと思って、あの……」
 言葉を重ねるほどおれは愚か者になっていく。情けないぜ、順平。マジでダサい、こんなのさあ。真田さんはおれの情けない自己嫌悪を知ってか知らずか、おれの手をじいと見つめている。そして、
「よし、揉んでやろう」
と言い出した。
 おれの手を引っぺがし、手のひらを上にして両手でやさしく包み込む。そして親指2本で手のひらをゆっくり押し撫でられた。それが済むと、今度はやや強めの力でツボを刺激する。おれはなんともいえない心地になった。そわそわして、鼓動が早くなって、あまりに落ち着かないので、唇を内側に巻き込んで、あごを引き、ぐっと体に力を入れた。平たく言うと、ひどく欲情していて、それを抑えるのに必死だった。ああなんて下卑た男。見境なしの淫蕩め。
「どうだ、うまいもんだろう」
 真田さんはこっちの気も知らずに、嬉々として手を動かしていた。
「や、もう効きすぎて逆に辛いとゆーか……」
 おれがそういうと、
「なら今度は反対の手だ」
と言われた。すげえなあ怖い人だなあ。おれは困惑しつつも、気持ち良いものは気持ち良いので、素直に反対の手を出した。そっちも同じように揉んでもらい、「よし、オーケーだ」と言われたとき、おれはもうめろめろになっていた。めろめろのくにゃくにゃ。自然と顔も火照ってくる。
「あ、ありがとーございました」
「いや、たまにはいいさ」
 お前の手は大きいから揉みごたえもあったしな、と微笑まれて、おれはステータス混乱になった。これがヤケクソじゃなくてよかった……と心底感じつつ、ふらふらと立ち上がり、熱くて重たい体を引きずるようにしてその場を去った。


おしまい

2006年8月16日 保田ゆきの






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